前回ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations』を紹介したが、今回は『Putin's Witnesses (Свидетели Путина, 2018)』を紹介したい。この作品も、dafilmsのストリーミング・サービスで鑑賞可能だ(英語字幕のみ)。
時は1999年12月31日。ロシアの大統領ボリス・エリツィンが、突然退任を発表して後任の大統領代行にウラジーミル・プーチン首相(当時)を指名した。プーチンは3ヶ月後の選挙で正式に大統領に就任する。監督のマンスキーはロシア国営TVのドキュメンタリー部門に属しており、選挙までの3ヶ月間、プーチン大統領代行の選挙活動を取材していた。国営TVの番組とは実質的には政府のプロパガンダであり、マンスキーが関わっていたのはプーチンの応援番組の制作である。マンスキーは2015年にロシアから<亡命>したが、この作品は、この3ヶ月間に撮影したフッテージをもとに2018年に編集したものである。マンスキーの意図は、その後の政治的転回によって明らかになるプーチンの独裁的性格や強硬保守主義が、すでにこのフッテージの中に現れていることをあぶり出そうとする点にある。
2018年の今では、プーチンは存在しない。彼はもはや血肉でできた人間ではない。彼はドラゴンだ。プーチン自身でも倒せない。
ヴィタリー・マンスキー
この作品では、確かにカメラはまだ若々しい大統領代行のそばを離れることなく追跡している。だからといって「ウラジーミル・プーチンの素顔」のようなものを期待しても無駄だ。映像には常に<政治家>が記号的に映っているだけで、それは普段ニュースや報道番組で見ている<ウラジーミル・プーチン>と何ら変わらない。それは彼が幼い頃の学校の先生を訪問するシーンでもそうだ。私達はプーチンがなにか<人間的な>側面を見せるのではないかと期待するのだが、それは期待はずれに終わる。
プーチンはTVのコマーシャルや討論番組に出演することなく、選挙運動をすすめた。つまり「私の仕事を見ろ」というメッセージである。その彼の<仕事>のひとつがチェチェン勢力の弾圧であったが、なかでも高層アパート爆破事件[Wikipedia]はプーチン政権にとって大きな転換点であった。プーチンが事件の現場を訪れるシーンがある。彼自身の個人的な関与があったかどうかは不明だが、この事件をきっかけにチェチェン勢力への弾圧が理由を得たのは事実だ。その後の報道で、事件はFSBによる自作自演だったことや、内幕を暴露しようとしたリトビネンコの暗殺などの後知恵をもってしまった私達には、事件現場に立つ2000年のプーチンの姿を見るのはやはり奇異で諧謔的な感じが強く残る。
一方、映画は選挙の行方を見守るボリス・エリツィンのプライベートな姿も追いかけている。エリツィンは、後継のプーチンは最適な人物だと確信しており、そのプーチンを選んだ自分の鑑識眼を自画自賛している。だが、その彼自身の思惑とプーチンの政策がすでにずれ始めている様子もとらえられている。特にソ連国歌を、歌詞を変えてロシア国歌に制定したプーチンの決定については、エリツィンは時代を逆行していると感じたようだ。
その国歌を録音するシーンが挿入される。歌詞を任せられたセルゲイ・ミハルコフとその息子ニキータ・ミハルコフが録音に参加している。まさしくソ連時代と同じように、新しい体制に迎合した歌詞をつくって、国歌が制定される伝統が続いている。それにしてもこの録音時にミハルコフ親子が目を光らせているのはなんとも異様だ。
ここには、いまロシアがウクライナに侵略している事態の萌芽はこのときにすでにあるのだ。当時気づいていなかったが、ここに映っているプーチンの延長線上に今がある。
Links
Variety誌のGuy Lodgeによる評は、マンスキーのナレーションとその視座を「not sutble」としながらも、現在はファシズムに反対の声をあげるのに躊躇している場合ではない、という主張には説得力があると評価している。[Link]
Current Timeがヴィタリー・マンスキーへのインタビューを掲載している。[Link]
Putin's Witnesses (原題:Свидетели Путина)
監督 Vitaly Mansky
編集 Gunta Ikere
音楽 Karlis Auzans
音響 Anrijs Krenbergs
製作 Golden Egg Production
2018 Latvia, Switzerland, Czech Republic
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