HyperNormalisation (2016) [BBC] |
ソ連では、国家の重要人物が亡くなったときには、「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」されてきた。これは、1946年に亡くなった、元ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの葬儀の様子である。
これは1968年に亡くなった、宇宙飛行士ミハイル・ガガーリンの葬儀の様子である。
カリーニンの葬儀では棺が土中に埋葬されているが、ガガーリンの場合は遺灰を入れた骨壷が壁の中に収められているのが分かる。もともと、ソ連に重要な貢献をした人物はクレムリンの壁の下に埋葬されていたのだが、第二次世界大戦後から徐々にクレムリンの壁付近に場所が確保できなくなってきており、遂に1960年代には、火葬して灰の骨壷を壁の中に収めるようになった。にもかかわらず、この葬儀は公式に「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」と表現されていた。
1960年代に、ソ連科学アカデミーのロシア語研究所の15人の教授が「この表現は現実と合わない」と中央執行部に示唆した。すなわち、亡骸を「埋めていない」のだから「埋葬」ではないだろう、と正確な表現に変更するように申し入れたのだ。数週間後、共産党中央執行部から表現を変えるつもりはない、との連絡がロシア語研究所に入った。理由は明らかにされなかった。ソ連の国民は、ニュース映像で骨壷が壁に収められる様子を目の当たりにするにも関わらず、「埋葬される」という表現で表される状況に慣れていき、それが奇異な表現だとは思わなくなった。
これはアレクセイ・ユルチャックが<ハイパーノーマリゼーション>と呼ぶ状況の一例である[1]。ユルチャックの定義では、ハイパーノーマリゼーションは「単に言語的、テキスト的、及びナラティブの構造のすべてのレベルにおいて影響を及ぼすだけでなく、それ自体が目的化してしまった、(言説の)正規化(ノーマリゼーション)のプロセス」であり、「述定的な意味のレベルで(ほとんど)解釈ができない、凝り固まって厄介な言語の形態」のことを指す。ユルチャックは、ソ連の統治の時代の終盤では、このハイパーノーマリゼーションがあらゆるレベルで観察され、政府権力はその凝り固まった言説によって、実際に起きていること(骨壷の収容)に対する、何も変化せずに連続している虚構の世界(埋葬)を維持し続けた。ソ連の国民は、共産主義システムの機能不全を目の当たりにしながらも、政府権力が描く、変化していない連続している世界を「見続けた」という。
BBCのiPlayerで公開された『ハイパーノーマリゼーション(HyperNormalisation, アダム・カーティス監督, 2016)』は、そのタイトルを直接ユルチャックの議論から借用している。アダム・カーティスはここで「社会システムが破綻して機能不全に陥っているにも関わらず、そして人々はそのことに気づいているにも関わらず、他の選択肢がないために、あたかも全て上手くいっているように振る舞っている」状態のことをハイパーノーマリゼーションと呼んでいる。ここで言うシステムの破綻とは、中東の国土が次々と瓦礫の山になり、過激派の凶悪な暴力が周辺国へさらに拡大し続け、一方でかつて先進国と呼ばれた国が急激な経済格差の進行に苛まれている事態であり、インターネットにより人々がよりセクト化し、憎悪と偏見がとめどなく増幅されていく凋落の様相を指している。
カーティスは、ハイパーノーマリゼーションの起源を1970年代中盤に起きた2つの政治の退廃的現象に求めている。一つは国家間の信頼という切り札を反故にした、アメリカのヘンリー・キッシンジャーの中東外交であり、もう一つはニューヨーク市の財政破綻と金融システムによる政治の乗っ取りである。
ヘンリー・キッシンジャーは<権力のバランス>による世界の支配を実践しようとする。イスラエルとの緊張が高まる中東では、特にデリケートな権力均衡を保つことによって、アメリカにとって都合のいい状態を作り出そうとしていた。パレスチナの独立こそアラブの平和に不可欠と考えるシリアのハーフィズ・アル=アサド大統領、そのアサドを、キッシンジャーは、独自の<建設的な曖昧さ(Constructive Ambiguity)>戦術によって欺き、エジプトとイスラエルの停戦協定を進めてしまう。この時のアサド大統領の失望が、その後の過激なイスラム原理主義とテロリズム、特に自爆テロの蔓延に結びついていく、とカーティスは語る。
さらに複雑に入り組んだ、そしてアメリカ政府自身にも非がある外交上の難題を、アメリカ政府とメディアは単純に善玉/悪玉のナラティブに落とし込み、そのサンドバッグとしてガダフィ大佐を30年にわたって容赦なく利用し続けてきた経緯を辿っていく。
一方で、リベラル/ラディカルのアーティストや運動家が政治運動から距離をおき、自分達の安全な繭のなかで、自分自身を表現する(express yourself)というモットーを掲げて自らの充足や幸福を追求する姿を映し出す。この繭の中の自己表現者達として、『キッチンの記号論(Semiotics of the Kitchen, 1975)』のマーサ・ロスラー、ニューヨークのアンダーグランド・シーンから登場したパティ・スミス、反戦運動からエクササイズ・ビデオに移行したジェーン・フォンダなどが挙げられる。
「繭の中のラディカリズム」の表現者たちとして、カーティスが主にフェミニスト達を挙げているのは興味深い。彼自身のミソジニーの無意識がそのような選択をさせたのか、それとも見る側の反応を秤にかけて、最も情動的な効果を得られるように選んだのだろうか。インタービューのなかでカーティスは、「パティ・スミスは、グループ運動に身を投じるのではなく、ラディカリズムを個人のアートで表現することを始めた、最初の人物だ」と言っている。そして「そのアートを通してラディカルな思考を広めようとしたのだが、成功したかどうか疑問だ」と言う。
「この自己表現者達を見て、現代の資本主義は『君たちの自己表現を手伝ってあげよう』と、様々な自己表現の手段を売り物にした」とカーティスは指摘する。「いかに自分がラディカルであるかを表現すること」は現代資本主義の最大の市場になった。
いま、最もラディカルな態度は、何も表現しないことだ
アダム・カーティス
カーティスはBBCの映像ライブラリの膨大なフッテージから、衝撃的で、オフビートで、時に残酷で、時に笑ってしまうような、極めて印象的な映像のマッシュアップを作ることを続けてきた。この作品も、その点において2時間40分という長さを全く感じさせない、壮大な映像の海を渡る作品だ。だが一方で、彼の作品はその巧妙な恣意性を指摘されることが多い。おそらく誰でも、彼の作品を見はじめて数分でいくつもの問題点を指摘できるだろうと思う。ある1つの事件からみえる問題を、20世紀終盤の歴史全体に敷衍して提起するようなロジックは大丈夫なのか。いま映っている映像は、カーティスが暗示しているような解釈をしてよいものなのか。「単純な話に落とし込んだ」政権側を批判しながらも、カーティス自身も単純な構図を提示しているのではないのか。そういう疑問はすぐに湧き上がってくる。そして、おそらく1時間も見た頃には、辟易する人も多いだろう。
カーティスの手法は、例えばフレデリック・ワイズマンのそれとは対極にある。カーティスの<ドキュメンタリー>には、彼自身が撮影した映像はひとつもない。過去に撮影された材料をコンテクストから剥ぎ取り、つなぎ合わせる。それに彼自身のナレーションを途切れることなくかぶせていく。鑑賞者はただカーティスの持論を延々と聞かされるだけだ。これでは、飲み屋で延々と<自分が考える東アジア地域の安全保障>について語っている初老の男性となんら変わらない。しかし、この<ドキュメンタリー>は、彼の持論に細かく反論したり、同意できないといって投げ出してしまうという真面目な見方をするものでもないだろう。まるでTwitterのタイムラインを見ているかのごとく、短いスニペットの映像が脈絡もなく流れていき、カーティスは様々な驚くべき出来事を滔々と喋っている。音楽はナイン・インチ・ネイルズが流れたかと思えば、ショスタコーヴィッチが襲ってくる。むしろ、見ている側が、自分が興味を抱いた事柄を取り出して、自らその周辺の事情を掘り出していけばよいのだ。そして、自分の持論を組み立てていけば良い。
カーティスの取りあげる事件は、奇矯だが決してデマや都市伝説の類ではない。例えば、「ブレア首相とブッシュ大統領がとにかくサダム・フセインを悪者にすることに躍起になってしまい、事実とフィクションの区別ができなくなった」出来事の例として、MI6が化学兵器の証拠を掴んだときの出来事を挙げている。カーティスは、マイケル・ベイ監督の映画『ザ・ロック(The Rock, 1996)』の映像を使いながら、こんな話をする。
(MI6がブレア首相に語ったところによれば)イラクが開発している神経ガスは、数珠つなぎになったガラスの球に収められているという。その話を聞いていた別のMI6のメンバーが、その詳細が1996年の映画『ザ・ロック』とそっくりであることに気がついた。
アダム・カーティス
カーティスは、ニコラス・ケイジが数珠つなぎになった緑のガラス球をケースから取り出すシーンの直後に、ブレア首相が「サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているということは疑いの余地がない」と宣言している記者会見の映像をつなげる。英国情報部は、イラクにいる情報源がハリウッド映画の場面をそのまま描写したものをトップ・シークレットして鵜呑みにしていたのである。このにわかには信じがたい話は、2016年に発表されたチルコット報告書[2]に記載されている事実が元になっている1)。
HyperNormalisation (2016) [BBC] |
カーティスは自己表現の繭の中を様々なかたちで批判しているが、彼自身がそのカルチャーのなかで育ってきたことに自覚的だ。さらにジョセフ・ヒースらの批判が資本主義の枠組みのなかにとどまっていたのとは対照的に、ソ連でも若者の間で「繭の中」が存在していた点も見逃していない。カーティスは「繭の中」が生まれてきた背景に冷戦後期の政治の退廃があると見ており、資本による自己表現の市場化はその結果だと考えている。
モスクワの感化院の少女たちが矯正官の質問に気怠く答える映像に、シベリア・パンクの中心的存在だったヤンカ(Yanka Dyagileva)の「My Sorrow is Luminous(Печаль моя светла)」がつながっていく。カーティスはその歌詞を字幕で見せる2)。
I say it tem times over and once again
No one knows how fucking shitty I feel
And the TV hangs off the ceiling
And no one knows how fucking shitty I feel
This has got so fucking annoying
That I want start all over again
This verse is sad, such that I say again
How fucking shitty I feel
Yanka "My Sorrow is Luminous"
受話器のない公衆電話が映し出される。これほど示唆に富んだフッテージを膨大な映像アーカイブの中から見つけてくるという点で、アダム・カーティスのなかには映像への底知れない畏怖と唾棄が共存しているのかもしれない。
HyperNormalisation (2016) [BBC] |
Notes
1)^ 報告書の第4巻第3章「Iraq's WMD assessments, October 2002 to March 2003」に以下の記載がある。
SISのレポートによれば、VX、サリン、ソマンがアル=ヤルムクで製造されており、<数珠つなぎになった中空のガラス球>を含む、様々な<容器>に入れられているという。
チルコット報告書
そして、当時からそのSISのレポートは疑問視されていた。
化学兵器には通常ガラスの容器は使用されない。人気の映画(ザ・ロック)は神経ガスがガラスのビーズ又は容器に収納されている様子を描写しているが、それは正確ではない。
チルコット報告書
『ザ・ロック』の脚本を担当したデヴィッド・ワイスバーグによれば、映画に登場する緑のガラス球は「完全なでっち上げ」「見た目がぱっとしないテクノロジーだから、視覚的に(観客を)驚かせようとしたもの」に過ぎないという[3]。ワイスバーグは、義理の父親ジェフリー・ケンプ(ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュの政権で安全保障部門のアドバイザーをしていた)に頼んで、化学兵器の専門家に取材している。だが、その面白みのない武器を危険で魅力あるものにするために「数珠つなぎのガラス玉」を発案した。
2)^ アダム・カーティスはこの曲がかなり気に入っているようだ。彼がマッシヴ・アタックと企画したコンサートで、エリザベス・フレイザーがこの曲をカバーしている(YouTube)。
References
[1]^ A. Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation. Princeton University Press, 2013.
[2]^ “[ARCHIVED CONTENT] Iraq Inquiry - Home.” (Link)< /p>
[3]^ C. Shoard, “‘It was such obvious bullshit’: The Rock writer shocked film may have inspired false WMD intelligence,” The Guardian, Jul. 08, 2016. (Link).
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