ヴァンデンバーグ空軍基地で発射されたミニットマンICBMの飛行軌跡。1964年11月3日。 Los Angeles Public Library Archive |
ホットライン・サスペンス・コメディ
『博士の異常な愛情』は公開時「ホットライン・サスペンス・コメディ」というキャッチフレーズが広告に添えられていた。確かに、ピーター・セラーズの一人芝居を通して、世界滅亡の危機に直面した米ソ首脳のホットラインがいかに荒唐無稽になってしまうかを描いた本作にふさわしい。
だが、前述したように、1964年当時の米ソ首脳間には直通電話が存在していなかった。地球の裏側の仮想敵国のターゲットを正確にICBMで攻撃する技術はあっても、相手と電話で直接話し合いをする技術さえ整備されていなかったのだ。
1962年のキューバ危機の時、ソ連の大使がウェスタン・ユニオンの電報サービスを使ってモスクワとやり取りしていたのは先に述べたが、その際、ウェスタン・ユニオンの集配人はメッセージを受け取りに大使館に自転車で行っていたという。「あの1962年の10月27日の夜、集配人が車にはねられていたらどうなっただろう」とマロニーは言い、「ストレンジラヴィアン Strangelovian」な状況だらけだったと述べている。
モスクワとワシントンの間のホットラインが設置されたからと言って安心できない。1965年の4月、コペンハーゲンの近くでブルドーザーが道路工事をしていたが、地中のホットラインの回線を切ってしまった[1]。この切断が原因でペンタゴンとモスクワは16分間にわたって音信不通になった。その1か月後の5月には、メリーランド州のローズデールで16歳と17歳の少年たちがマンホール内に侵入、火災を起こし、ホットラインが切断された。記者たちに状況の深刻さについて質問を受けた国防総省のスポークスマンは「AT&Tに聞いてくれ」と答えたという[2]。次の年、フィンランドの逓信局のエンジニアたちが一斉にストライキを行った。そのストライキの最中に、数時間ホットラインの回線が切れていたという[3]。フィンランド南部の小さな村、ロホヤの農夫は畑を耕していてホットラインを切断した[4]。そこにホットラインが埋まっていることを忘れていたようで、1ドル50セントの罰金を科せられた。1964年には、ヘルシンキ郊外で泥棒がホットラインのケーブルを6メートルほど切り取って売り飛ばしたらしい、なんてこともある[5]。
これらの事件は、モンティ・パイソンのスケッチのシナリオではない。実際に起きたことだ。幾度も大気圏内で核爆発実験を行い、ICBMなどという恐ろしい武器を開発しておきながら、テレックスの回線ひとつさえ、まともに管理できないのである。ロンドン経由のホットライン回線と並行して、タンジール経由の無線ホットラインがあり、そちらが機能していたのだからよいではないか、ということらしいが、農夫が畑を耕したら切れてしまうような設計でよいのだろうかと思わざるを得ない。これらの事件を見ていると、『博士の異常な愛情』のコメディが高尚に思えてしまう。
肉眼で見えないものを信用する
私がなぜ作戦指令室の作戦ボードに興味をもったかというと、冷戦時代に起きた《ニアミス》のなかに、この作戦ボードをめぐるものがいくつかあるからである。
今まで多くの映画やTV番組が、冷戦は密室の中で始まり、密室の中でエスカレートしていく、という印象を植え付けてきたと思う。『博士の異常な愛情』『未知への飛行』などは国家の首脳たちが、核戦争の《結果》とは無関係な空間のなかで、その行方を議論することが中心になっている。『ラスト・カウントダウン/大統領の選択』では、爆撃機でさえ閉ざされた空間であり、恐ろしいことが起きている地上とはかけ離れた場所として存在している。閉ざされた空間からレーダーや衛星を使って視覚化された世界を見る。その状態で、あるいはその状態だからこそ、世界戦争を始められる。本当にそうなのだろうか。実際にはどうだったのだろうか。そのことに興味があった。
有名な核戦争のニアミス事象の一つに1979年11月9日の事件がある。これは、NORAD、SAC、ペンタゴン、レイヴェンロックのすべてで、大規模なソ連の核攻撃が開始されたという警報が発報され、迎撃・攻撃準備がなされた事件である[6] p.228。ソ連の戦略ミサイルが250発もアメリカに向けて航行中であると大統領補佐官のズビグネフ・ブレジンスキーに伝えられた。大統領(当時の大統領はジミー・カーター)は3〜7分のうちに反撃するか否かを決定しなければならない。2本目の電話ではソ連が発射したミサイルの数は2,200まで膨れ上がり、もはや一刻の猶予もなかった。ブレジンスキーがあと1分経ったら大統領に電話をしようと決心していた時に、3本目の電話が鳴り、この警報は間違いだったと知らされた1) 。
これはのちの調査で、NORADのコンピューター・システム(427M)のアップグレード中に実施されたソフトウェアテストが、間違って稼働中の本システムのほうに表示されたことが原因であるとわかっている2) 。ソフトウェアテストでは「実際にソ連が攻撃を仕掛けてきた」状況が再現できるようになっていた。それが開発中のシステム側だけで実行されるはずだったにもかかわらず、なぜか稼働中の本システムに流れ込み、数百発のミサイルが軌道を描きながらアメリカの主要ターゲットに向かってくる様子がNORADやSACのディスプレイに表示されたのである。
このニアミス事象から1年も経たずに、別のニアミス事象が起きている。1980年6月3日の午前2時25分、NORADとSACのディスプレイにまた敵の攻撃を示す警告が現れた[6, p.231]。しかし、この際にもソ連のミサイルは実際には発射されておらず、その後の調査で、1個64セントのコンピューターチップの不良とNORADのメッセージ設計がまずかったことが重なって起きた事象だということが明らかになった。
いずれの場合も、NORADの首脳やペンタゴンの幹部はディスプレイに表示された警告を信じていない。本来なら、すぐに大統領と側近の補佐官に知らせなければならないはずだが、「まあ、待て」といった感じで、何かの間違いだろうと、レーダーや衛星のデータに直接アクセスして間違いであることを確認しようとしているのである。87ものコンピューターが複雑に絡み合ったシステムを、普段は「世界最大のコンピューターシステム」と自慢しているくせに、いざとなると信用しなかった。ソ連のミサイルがアメリカ本土に届くまで最短で20分と言われているにもかかわらず、6分も大統領に連絡することを愚図ったのは後に問題になった。しかし、彼らがディスプレイに表示された警告を信用せずにいてくれたがために、世界は核戦争を経験せずに済んだともいえる。
これは、実際に眼で確認できない情報を視覚化することに対する私たちの漠とした不信みたいなものを表してはいないだろうか。「見える化」などという、日本企業にいれば1日1回聞くような言葉がある。あれは「可視化」とは違うのだそうだが、いずれにせよ、会議室に座って何もしない人間が使う言葉である。あと20分で核戦争に突入するかもしれない、というときの「決断」に必要なのはセンサーのデータを直接確認することだった。
触角をのばす
1961年に起きた別のニアミス事象は、少し様相が違っている。11月24日、NORADとSACの両方で、BMEWSのレーダ網からの信号が途絶えた[7, (153/491)]。この最前線のレーダーからの信号の喪失は「ソ連による攻撃」を意味しており、厳戒態勢に入る。当時、SACを指揮していたのは、「アメリカ人が2人生き残って、ロシア人が1人生き残ったら、俺たちの勝ち」という名言で知られるトーマス・パワー将軍だった。パワーは爆撃機を離陸できる体制に入らせておいて、BMEWSのレーダーの一つであるグリーンランドのチューレ上空を飛行中の飛行機とコンタクトし、レーダー施設の状況を報告させた。そして、実際には施設が攻撃されていないことを確認して警戒態勢を解いたのである。この時は、コロラド・スプリングスの無線施設で当直していたAT&Tの職員が間違ったプロトコルで信号掃引テストを行ってしまい、SACとNORADの無線を使えなくしてしまったことが原因だった。後日、SACは無駄に飛ばした飛行機の燃料費をAT&Tに請求したらしい[8]。
レーダーは、電磁波という波動を空間に伝搬させて、その反射や吸収をもとに視覚や聴覚では捕捉できない物体の位置を知る手法である。これを私たちが理解するためには、レーダーの波動情報を視覚情報に変換する必要がある。戦略的に配置されたレーダー施設からの信号が途絶するということは、防衛システムにとっては目をつぶされたも同然なのである。そして、実際に「目」がつぶされたのかどうかを確かめるために、爆撃機を派遣して「肉眼で」確認したのである。
自分たちのレーダー網がどこまで広く、何を見ているか、は把握しているかもしれないが、敵のレーダーがどこまで「見えているか」は、簡単には把握できない。これが「視覚」ならば予想もつくだろうが、電磁波がどこまで届いているかは目では確認できない。では、冷戦時代、アメリカはどのようにしてソ連のレーダー能力をはかったのか。
アメリカ国防総省によって極秘にされてきた作戦の一つに「フェレット・フライト」というニックネームがつけられたものがある[9]。改造されたB-29 やB-47などの爆撃機が、ソ連の領空内にわざと侵入して、ソ連のレーダー能力を調査するのだ。これらの爆撃機は銃座が取り除かれ、爆弾格納庫も改造されて、ソ連領内の電波状況や通信内容を傍受するための機器や装置が搭載されていた。ミッションはソ連の防御網を地理的に正確に把握することである。そして、少なくない数の作戦機がソ連の戦闘機のスクランブルによって犠牲となっている。少なくとも30機の行方が分かっていない。
相手の《視力》を知るためには、相手を挑発するしかない。
相手には何が見えているのだろうか。誰かと目が合った時、その人に私は見えているのだろうか。その人は、ただ、こちらのほうを向いているだけで、私は見えていないのだろうか。
ヴァンデンバーグ空軍基地の航空ショーで展示されているアトラス大陸間弾道ミサイル(アメリカ空軍)1962年9月24日(via. Los Angeles Public Library Archive) |
受信と摂動
フィンランド南部の町、エスポーにTV塔がある。1971年に建てられたもので、303メートル、建てられた当時としてはフィンランドで2番目に高い建造物だったはずである。
フィンランド湾をはさんでエスポーに向かい合うソ連の街タリン(現エストニア)では、このTV塔からの電波が受信できるようになった。タリンの住民はTV受像機を改造し、フィンランドのTV放送を隠れて見始めた。当時の共産党政権下では、民衆は西側の文化に触れることは禁じられており、映画や音楽から小説まで、当局が許可したものしか流通していなかった。エストニアのTV番組も共産党の統制と検閲の下で製作されていた。しかし、このTV番組が、古臭くて、貧乏くさくて、プロパガンダ臭がひどく、面白くない。もう世界はディスコの時代なのに、TVでは社交ダンスしかやっていない。そこにフィンランドから電波にのってアメリカのTV番組が届き始めた。『ダラス』や『ナイトライダー』は、タリンのアパートで息をひそめて改造TVを見ている家族のあいだで大人気だったという[10]。
エストニアの共産党は、この事態を重く見た。フィンランドがアメリカの援助を受けてTV塔を建て、汚染電波をこちらに向けて発信しているのだと考えていた。西側の退廃資本主義をタリンの町に向けて意図的に送り続け、人民を堕落させようとしている。プロパガンダだ。後年になって分かったことだが、フィンランドのYle(国営放送)はアメリカの援助など受けておらず、ただ国内南部全域にTV・ラジオ電波を行き届かせるために出力を大きくしていただけだった。
1987年の6月、このTV局で『エマニュエル夫人』が放送されるという情報がエストニアを駆け巡った。タリン市外から、多くの民衆が親戚や友人のつてを頼って、塩柱になる覚悟で、この資本主義文化の澱を見にやってきた。ある男は、よりクリアな映像を見ようと水銀温度計を改造して作った特殊なアンテナを使い始めた。このアンテナの存在が、近くのソ連の核ミサイル基地のレーダーに干渉していた。基地からジープが飛んできた。「レーダーが干渉されると、間違って何かを打ち上げてしまうかもしれない」とジープが暗い夜道を走り回った。あの日、フィンランドのTVが『続エマニュエル夫人』を続けて放送していたら、人類は滅亡していたかもしれない。
この「水銀温度計アンテナ」の話は、映画「ディスコと核戦争(Disco and Atomic War, 2009)」に登場する。これを一種の《都市伝説》としてとらえる人も多い。ただ、液体金属が極めて効率の良いアンテナになるのはよく知られており、ひょっとすると全くのデタラメというわけでもないのかもしれない。現在でもStarlinkのように、越境する電波が政治や戦争の天秤を揺らす力になることは変わらない。目に見えない波がどこまで届いているか、そこで誰に届いているか、そして何を届けているか。この戦いはまだしばらく続きそうである。
Disco and Atomic War (2009) |
1)^ この事件についての様々な記録には、食い違いが多く、正確な情報を知るのが難しい。発生した時刻でさえ、発言者によって違う。ロバート・M・ゲイツの「From the Shadows: The Ultimate Insider’s Story of Five Presidents and How They Won the Cold War」によれば、大統領補佐官のブレジンスキーは「早朝3時に叩き起こされ」て、核戦争の危機が迫っていることを知らされたと語っている[11, p.114]。しかし、この事件を公開された資料を基に記述したスコット・セーガンによれば午前8:50に発生したことになっている[6] p.228。ブレジンスキーがどこにいたのかはわからないが、アメリカ国内の時差を考えても午前3時になる場所が見つからない。ブレジンスキーの発言内容にはある程度注意しなければならないかもしれない。
2)^ 過去に国防省や軍関係者は「コンピューターのオペレーターの一人が間違ってトレーニング用データのテープをマウントしたのが原因」という説明をメディアにしていた[12]。これは、システム運営の問題として追及されることを避けるために、個人の問題に矮小化しようとしたのだろうという[6] p. 238。上記の原因究明はその後に開示された文書によって明らかになった事実である。
References
[1]^ "U.S., Moscow Hotline Cut by Bulldozer," Reno Gazette-Journal, p. 10, Apr. 27, 1965.
[2]^ D. Wise, "HotLine Knocked Out by Seven Teen-Agers," Los Angeles Times, Lod Angeles, May 17, 1965.
[3]^ "U.S.-Soviet Hotline Ouut for Several Hours," The Odessa American, p. 1, May 21, 1966.
[4]^ "Hot-Line Break Results in Fine," The Bangor Daily Times, p. 35, May 25, 1966.
[5]^ "Part of ’Hot Line’ Is Stolen," St. Joseph News-Press, p. 34, Jan. 19, 1964.
[6]^ S. D. Sagan, "The Limits of Safety: Organizations, Accidents, and Nuclear Weapons." Princeton University Press, 2020. Available: https://books.google.com?id=AObaDwAAQBAJ
[7]^ S. M. Maloney, "Deconstructing Dr. Strangelove: The Secret History of Nuclear War Films." University of Nebraska Press, 2020.
[8]^ L. NAVARRO, "EVER WONDER? AT&T caused NORAD blackout; Cresterra Parkway," Aug. 26, 2011. https://gazette.com/news/ever-wonder-at-t-caused-norad-blackout-cresterra-parkway/article_0ca51020-29bd-5512-a5c4-2accb3412874.html
[9]^ P. Glenshaw, "Secret Casualties of the Cold War." https://www.smithsonianmag.com/air-space-magazine/secret-casualties-of-the-cold-war-180967122/
[10]^ A. Lepp and M. Pantti, "Window to the West: Memories of Watching Finnish Television in Estonia During the Soviet Period," vol. 2, no. 3, 3, p. 77, Jun. 2013, doi: 10.18146/2213-0969.2013.jethc034.
[11]^ R. M. Gates, "From the Shadows: The Ultimate Insider’s Story of Five Presidents an." Simon and Schuster, 2011. Available: https://books.google.com?id=M51ssIgLMl8C
[12]^ R. Halloran, "U.S. Aides Recount Moments of False Missile Alert," The New York Times, Dec. 16, 1979.
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