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カダベリンとプトレシンの化学式 腐肉のにおいの元と言われている |
Interessengebiet
『関心領域(The Zone of Interest, 2023)』については、私は観る前からある関心事がひとつあった。
《におい》である。
ナチスの強制収容所、絶滅収容所に関する本や記述を読んでいると、かなりの頻度で《におい》の話が登場する。死体を焼く《におい》、腐乱した死体の《におい》、不衛生な状態で収容されている収容者たちの《におい》、まともに処理もされない排泄物の《におい》─── そういった《におい》が常に収容所のなかに蔓延していたという。《におい》は収容所の敷地内だけではない。周辺の町や村にまで流れていって、住民たちも《におい》に悩まされ始める。『関心領域』の原作でも、収容所近辺の町で水が臭くて飲めないという話が出てくる。何度沸かしても、腐肉のような臭いがする1) 。
そういった《におい》の感覚を映像でどう扱うのだろう、という関心があった。アウシュヴィッツ収容所の壁のすぐ外である。《におい》がすごかったのではないか。
この映画では、耐えられない《におい》についての描写はほとんどなかった。
ヘートヴィヒの母親がヘス家を訪れた夜、塀の向こうに立ち上る業火を窓の向こうに見て、枕の下に隠していたハンカチで鼻か口かを覆う。ひょっとするとそれが耐えられない《におい》についての描写なのかもしれないが、決して自明ではなかった。
『関心領域』という映画は、視覚と聴覚を研ぎ澄まして注意をはらうことを観客に要求する。収容所のほうから聞こえてくる様々な音響が、想像を絶する地獄を観客に想像させるように演出されているからだ。そして登場人物たちの行動は説明されない。妻は毛皮のコートを選ぶ。子供は金歯で遊ぶ。示唆の力による糾弾である。そういったほのめかしと歴史的事実の答え合わせが、特異な演出法のおかげでより知的な戯れになっている。私は少し置いてけぼりを食らったような気持ちになってしまった。あの庭を通り抜けるそよ風は、耐え難いほどの《悪臭》を運んできていたのではないだろうか。
私が、《ホロコースト》と《におい》について考えるのは、アウシュヴィッツの生存者がいう「知らなかったなんてありえない」に連なっていくからだ。生存者たちは口をそろえて言う。あの地域全体に《におい》が充満していた。
実際に強制収容所、絶滅収容所にいた人たち、見た人たちが、口をそろえて言うことのひとつが、《におい》のことである。
あの臭いは忘れない。風向きが変わったときに初めて気づいたんだ。まだフェンスの向こうになにがあるか見てないときだ。臭いがしたんだ。
William “Bill” Casassa
Ahlem Concentration Camp Liberator2)
私たちは死体を掘り返して焼くように言われました。木材に石油をまいて火をおこし、そこに死体を投げ入れていました。作業はいつも二人組です。一人が足をもって、もう一人が腕をもって、投げ入れるのです。臭い、悪臭がひどかったです。死体は血だらけなだけではなく、もう腐敗していました。顔を覆う布をわたされました。
SSの連中は、いつもウォッカかコニャックか何かを瓶からラッパ飲みしていました。あいつらも我慢できなかったんでしょう。ひどかったですから。
Otto Pressburger,
Auschwitz survivor
(知らなかったなんて)嘘だね。何が起きていたか、知らなかったなんてありえない。死体を焼いている臭いがしたはずだ。耐えられない悪臭だよ。昼も夜も。収容所のなかだけじゃない、地域全体だ。
Leon Schwarzbaum,
Auschuwitz Suvivor
この《におい》について強調しているのは、犠牲者、被害者となった者たちだけではない。加害者たちも、もちろん気づいていた。『関心領域』の主人公のモデルでもあるルドルフ・ヘスは自伝を残しているが、こういう記述がある。
初めて死体焼却をしたときは開放状態で行ったのだが、その際に分かったのは、このやり方では長いあいだ続けられないということだった。悪天候の時や風が強い時には、人体を焼く悪臭が周辺何キロにもわたって広がって、公式のプロパガンダでいくら否定しても、「ユダヤ人を焼いているぞ」と周辺の居住者のあいだで噂になってしまうからだ。
Rudolf Höss [1]
映画の舞台となったヘスの自宅のあの塀の向こう200メートル足らずのところに、アウシュヴィッツ収容所のクレマトリウムI(焼却施設)があった。ビルケナウのものよりは規模が小さかったようだが、それでも、あの家の空気が、花の匂いで埋められていたとは考えにくい。
もともと、ナチスが「最終問題の解決」を行う収容所の場所を選ぶときに、なるべく人里離れたところであれば《におい》で近隣住民が騒ぐ問題も起こらないと考えていたという見方もある。例えば、映画『ヒトラーのための虐殺会議(Die Wannseekonferenz, 2022)』には、アイヒマンが「においの問題が起こらないような場所を選んでいる」と発言するシーンがあり、この見方をもとにしているようである。アウシュヴィッツの周辺、40キロ平方メートルの「Interessengebiet(The Zone of Interest)」も、そこに住んでいた地域住民を追い出して、SSのメンバーが「移住」してくることを想定した地域であり、その背後には施設を地域住民から隔離するという目的もあった。T4作戦が失敗した理由の一つが、遺体焼却の際のにおいで地域住民に大量殺害が《ばれて》しまったことだった点も考えると、『関心領域』で《におい》が焦点の一つに上がってこなかったのは、私としては不思議だった。
映画『関心領域』は、視覚と聴覚を巧みに操作して違和を創り出し、そこで観る者が感じる微妙な知覚的歪みを通して、モラルの問題につきあたるように演出されている。視覚的には強烈な衝撃や刺激はない。聴覚的には遠方で起きている異様な何かを示唆するにすぎず、例えば、黒板を爪で引っ掻く音や骨の折れる音のように、そのものが生理的に不快な反応をもたらすような音響ではない。視覚(光)や音響(音波)は、波動であって、五感のなかでも非接触の感覚である。映画というものは、視覚と聴覚だけを扱う。映画は、どこまでいっても何にも触れることはない。
だが、残りの知覚 ─── 嗅覚、味覚、触覚 ─── は、接触を通して行われる。嗅覚は、におい分子が嗅覚受容体との結合すること、味覚は味覚の原因分子(味分子)が味蕾にある受容体と結合することによって発生する。すなわち、「人体を焼く悪臭」とは、犠牲者の身体の一部、焼却されて身体から分離した分子が、SS将校の鼻腔にある受容体と接することを示している。言い換えれば、殺された者たちが、殺した者たちに触る、唯一の方法である。
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ブロモ酢酸エチル 殺虫剤としてのツァイクロンBに含まれていた注意喚起用の臭気化合物。アウシュヴィッツのガス室で使われていたツァイクロンBは、被害者たちが臭いで危険を察知することを避けるために、この物質が含まれていなかった3)。 |
身体は嘘をつかない
ヒトは、悪臭に触れると生理的に反応する。悪臭だけではない。大量の死によって引き起こされる環境の変化は、そこに住むヒトの身体に影響を及ぼす。
アウシュヴィッツで人体実験を行った医師、ヨハン・パウル・クレーメル(Johann Paul Kremer)4) は、日記のなかで彼自身や仲間のSS隊員が頻繁に下痢や嘔吐に悩まされていることを記している[2]。彼はこれを「非常に乾燥していて、熱帯のように暑い、この不健康な大陸の気候、それに濛々と立ち込める埃や虫」が原因だろうと推測している。彼の日記にはひたすら食事のことが書かれているが、「水が汚染されていて、(無料の)セルツァーを飲んだ」ことなども出てくる。「特別作戦」に立ち合うと、ご褒美として石鹸を余分にもらえる。
この映画の評で、よく見かけるのが「妻のヘートヴィヒは壁の向こうで起きていることを知っているのに、まるで何も起きていないかのように振る舞っていた」といった記述である。だが、彼女は「何を、どこまで知っていた」のだろうか。ユダヤ人や多くの収容者が殺されているのは知っていたのだろうか。ガス室で殺されているのは知っていたのだろうか。毎日何人くらい殺されていると知っていたのだろうか。自分の夫がその命令を出していることを知っていたのだろうか。『関心領域』というフィクションに対面したとき、私たちはヘートヴィヒと彼女を取り巻く状況を想像するしかない。だが、状況があまりに異様すぎて、とても想像が追い付かない。実在のヘートヴィヒは何をどこまで知っていたのだろうか。
ニュルンベルグ裁判において心理分析官として活動したG・M・ギルバートは、ナチスの高官たちと直接話す機会を与えられ、ルドルフ・ヘスとも彼の独房でパーソナルなことにも踏み込んでインタビューしている[3, p.237]。ギルバートはヘスに妻との関係について尋ねている。ヘスによれば、ヘートヴィヒは「彼がやっていること」を知っていたという。
(夫婦関係は)普通だった。しかし、彼女が私のしていることを知った後は、私たちはほとんど性交をしたくなくなってしまった。今になって振り返ってみると、外向きには普通だったかもしれないが、疎遠になっていたのかもしれない。
RUDOLF HÖSS
ギルバートが引用するルドルフ・ヘスの言葉(ギルバートはドイツ語で会話したものを英語に訳している)は “but after my wife found out about what I was doing, we rarely had the desire for intercourse” である。主語は “my wife”、つまり、彼がヘートヴィヒに話したというわけではなく、ヘートヴィヒが「見つけた」「知った」ということになる。だが、彼が “what I was doing” としか表現しないため、ここでもヘートヴィヒが「何を」「どこまで」知ったのかはわからない。注意を惹かれるのは「私たちはほとんど性交をしたくなくなってしまった(“we rarely had desire for intercourse”)」の部分である。「まるで何も起きていないかのように振る舞っていた」わけでもない。この夫妻は身体的な夫婦関係を喪失したのである。
実際のヘードヴィヒは、アウシュヴィッツ収容所所長の妻という地位から得られる権力を思う存分利用していた。庭師は彼女のために収容所に調達された食料や日用品を横取りしていた。
ヘスの妻は満足することなどありませんでした。家に何が足らないかをずっと言っていて、私にとって来いと暗に指示していました。・・・ヘス家は私が持ち込んだものの代金なんて払ったことはありません。つまり、台所や家のために私が収容所食糧庫や屠殺場からとってきたものですね。
STANISŁAW DUBIEL
The Gardener [4]
彼の他にもヘス家の食料、衣服(革製品)、宝石類、そして庭の植物まで、収容所の物資を横取りしたり、収容所の人員を使って作らせたりしたものだった。この庭師はまたこんなことも証言している。
ヘスはハンガリーには「欧州ユダヤ人絶滅のための特別代表(Sonderbeauftragter für die Judenvernichtung in Europa)」という肩書で行きました。ヘスの妻は公式には夫のことをこう呼んでいました。
STANISŁAW DUBIEL
The Gardener [4]
ヘートヴィヒは、夫が「欧州ユダヤ人絶滅」の仕事をしているということを誇りに思い、はっきり発音する一方で、その仕事をする夫を身体的に受け入れないでいた ─── そういうことなのだろうか。この矛盾は、他者に理解できることなのだろうか。もちろん、ルドルフ・ヘスの言葉がどこまで信用できるか、という問題もある。また証言の内容が正確に伝わっているのか、という懸念もある。「私たちはほとんど性交をしたくなくなってしまった」には、もっと別の理由があったのかもしれない。個人の世界はあやふやで断言できることなどめったにない。
私は、ここで映画と歴史の記述とのあいだの答え合わせをしようとしているのではない。フィクションとして描かれている物語をみたとき、「私たちと同じ人間だった」はずの男女の身体の描写(あるいはその欠如)をどう解釈するか、考えあぐねているのだ。映画は所詮「触れることができない」表現だ。今までは、その「もどかしさ」を越えようという試みが繰り返しなされてきた。一方で、監督のジョナサン・クレイザーをはじめ、この作品の製作者たちは、その試みを回避して「演技させて観察する」という姿勢に徹した。それは興味深いアプローチだと思うし、この映画では、その観察を通して「加害者も人間である」という命題が縁どられていく演出や演技は優れていると思う。だが、「触れることができない」と「触れない」のあいだには大きな溝がある。
映画の最後のほうで、ヘスが嘔吐するシーンがある。嘔吐しようとするが、何も吐けない。この極めて記号的な嘔吐は、まさしく「触れない」から生れてきたものだ。嘔吐の理由は示されない。それは編集上は大量虐殺への反応とも受け取れるが、物語の上ではあやふやなままである。
子供たちと川で遊んでいるときに、ルドルフ・ヘスが流れてきた顎骨を見つけるシーンがある。彼は、大急ぎで子供たちと家に戻って、身体を洗わせる。ヘスが顎骨を見つけるとき、川の上流から濁ったものが流れてくるのが分かる5) 。「触れない」「触れてしまったら洗い流す」「触れていても無視する」─── そういった様式なのかもしれない。
サイレント映画時代に、映画の物語内の音(ダイエジェティック)を視覚的に表すためには、登場人物の反応を使うことが多かった。例えば誰かがドアをノックしたら、その方向を見て耳をそばだてる演技、何か大きな音がしたら、うるさいとばかりに耳をふさぐ演技、と言った具合だ。足りない知覚の次元を補う手法である。映像と音声が備わっている現在の映画の場合、嗅覚についての表現は映像と音声で補われてきた。においを嗅いだ人の反応を通して、というのが一番一般的だろう。そう考えていくと、『関心領域』の《におい》の欠如は、サイレント映画で「音を聞く仕草」の演技がないのと似ている。確かに、あの「音を聞く仕草」の演技は垢抜けてはいない。だが、それが「永遠に何物にも触れることのできない」映像メディアの宿命ではないかと私は考えている。
ユダヤ人の大量虐殺が始まる前、ナチスは障がい者の《安楽死》プログラム(T4作戦)を開始している。1940年1月、ベルリン郊外のブランデンブルグ(Brandenburg an der Havel)の施設でガスによる殺戮が始まる。1月から10月のあいだに9000人以上が一酸化炭素ガスによって殺された。死体は施設内で焼却された。
近隣の住人から苦情が出たという。耐えられない《におい》だったという。どこで読んだか思い出せないが、家の窓に人間の体脂が付着し始めるのだそうだ。家の前の通りを焼け焦げた髪の毛が転がっていくのも見られたらしい6) 。T4計画の推進者たちは、施設の中で何が行われているかを秘匿していたが、近隣の住民はほとんど知っていたというのが通説だ。
この「苦情」とはどんなものだったのか。「『生きるに値しない命』なんて考え方、間違っている、これは殺戮だ」だったのか。それとも「臭いから、どこか他所でやってくれ」だったのか。
あの恐ろしい時代に、自分だったら、どんな「苦情」を言っただろうか。
Notes
1)^ アウシュヴィッツ・ビルケナウは規模を拡大する際に、下水処理の計画が大幅に遅れていた。収容者たちの排泄物の処理手段の計画実行は、極めて杜撰で、周辺地域からの苦情をヒムラーは無視、排泄物を無処理で直接ビスワ川に流し込む計画さえあった。1943年7月になってようやく下水処理場が焼却施設(クレマトリウムII)の隣に建設された[5]。
2)^ ハノーヴァー=アーレム強制収容所 Hanover-Ahlem Concentration Camp を解放した第84師団には、後の国務長官、ヘンリー・キッシンジャーもいた。後年、彼は強制収容所解放の経験を全く語らなかったが、アーカイブから発見された、彼のメモ「The Eternal Jew」はその時の経験をつづったものである。この文章は、若々しい理想と自由の満ちた青年が、極めて生々しい光景を目の当たりにした様子がみごとに伝わってくる。素晴らしい文章だ。私たちは、その後のキッシンジャーの政策を知っているだけに、寂莫とした戸惑いをいだかざるを得ない。
3)^ ガス室で使用されたツァイクロンBには注意喚起用の臭気物質であるブロモ酢酸エチル[6]が含まれていなかった。デゲシュ社がこの特別仕様のSSからツァイクロンBの注文を受けたとき、この臭気物質の除外という意味が分からなかったという。これは殺虫剤としてドイツの法律で決められていることであり、同時にデゲシュ社の特許でもあった(ツァイクロンBそのものの特許は切れていた)。この臭気物質の除外は、デゲシュ社がナチスと共謀して大量殺戮を行ったことの証拠の一つでもある[7]。
4)^ ヨハン・パウル・クレーメルは、SSの収容所医師のなかでも珍しく、大学教授(ミュンスター大学)だった人物である。しかし、当時のナチス政権下の医学界からでさえ学術的に問題がある研究者として軽蔑されていた。彼は「外傷性の身体変形は遺伝する」と主張して、学長からも非難され、大学では研究室を持たせてもらえなかった。アウシュヴィッツでの彼は、飢餓の研究と称して、臓器を取り出すために、収容者をフェノールで殺害していた[8, p.292 -293]。
5)^ アウシュヴィッツでは、焼いた遺体の灰を木のすり鉢でつぶした後、ビスワ川やソラ川に捨てていた[9]。ちなみに、ヘートヴィヒ・ヘスはアメリカで没し、娘のブリギッテが火葬した。その遺灰は、ユダヤ人、イスラム人、カトリックも眠るアーリントン墓地に埋葬されているという[10]。
6)^ 当初、ブランデンブルグの施設は、一般人の居住区、市街に近いことが利点とされていたが、それが全く欠点であることがすぐに明らかになった。当局は、敷地内での遺体焼却を止め、夜間に市外にまで遺体を輸送、そこで移動型焼却設備で遺体処理を継続しようとしたが、あまりに「煩雑」で「非効率」であるため、ブランデンブルグの施設を閉鎖することに決めた。
References
[1]^ R. Hoess, "Commandant of Auschwitz : The Autobiography of Rudolf Hoess," New Ed edition. London: Phoenix, 2000.
[2]^ H. J. Rindisbacher, "The Smell of Books: A Cultural-Historical Study of Olfactory Perception in Literature," First Edition. Ann Arbor: University of Michigan Press, 1993.
[3]^ G. M. Gilbert, "The Nuremberg Diary." The New American Library of World Literature, 1947. Available: https://books.google.com?id=hfisAAAACAAJ
[4]^ S. N. Tribunal, "Auschwitz-Birkenau – the German factory of death." Nov. 06, 1940–Jan. 19, 1945. Available: http://www.zapisyterroru.pl/dlibra/show-content?id=3778&format_id=3
[5]^ R.-J. Van Pelt, "A Site in Search of a Mission," in Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Y. Gutman and M. Berenbaum, Eds. Indiana University Press, 1998. Available: https://books.google.com?id=mub823JQrdUC
[6]^ M. Freemantle, "The Chemists’ War: 1914-1918." Royal Society of Chemistry, 2015. Available: https://books.google.com?id=2TRoBAAAQBAJ
[7]^ S. T. Katz, "Historicism, the Holocaust, and Zionism: Critical Studies in Modern Jewish History and Thought." NYU Press, 1992.
[8]^ R. J. Lifton, "The Nazi Doctors: Medical Killing and the Psychology of Genocide," Reprint edition. New York: Basic Books, 1988.
[9]^ A. Strezelecki, "The Plunder of Victims and Their Corpses," in Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Y. Gutman and M. Berenbaum, Eds. Indiana University Press, 1998. Available: https://books.google.com?id=mub823JQrdUC
[10]^ "Hiding in N. Virginia, a daughter of Auschwitz," Washington Post, May 17, 2023. Available: https://www.washingtonpost.com/lifestyle/magazine/hiding-in-n-virginia-a-daughter-of-auschwitz/2013/09/06/1314d648-04fd-11e3-a07f-49ddc7417125_story.html
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