2014年3月30日日曜日

広告に載った九つの映画:誘惑 (後篇)

「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」の撮影風景(filmprotal.de
この吊ってあるカーボン・アーク灯が落ちて事故になったという記述があります。


カメラマンのカール・ホフマン(1885 - 1947)は、10代の頃から映画業界に入って、現像技師、映写技師などを経験し、1916年にデクラ社のカメラマンとなります(1)。そこで彼は、エーリッヒ・ポマーのもと、オットー・リッペルト監督の「ホムンクルス」6部作やアルウィン・ノイシュのメロドラマの撮影を担当します。1920年にフリーランスのカメラマンになり、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, dir Spieler, 1922)」、「ニーベルンゲン(Die Niebenlungen, 1924)」、FW・ムルナウの「ファウスト(Faust, 1925)」などの作品に参加します。20年代の末には自ら監督もするようになりました。彼はトーキー導入によってカメラが静止してしまうのを嫌い、「トーキー技術を導入してもカメラは自由に動かせるべきだ」と考えて実践しています。「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」は、リリアン・ハーヴェイ主演のヒット作として有名ですが、カメラは実に自由に動き回っています。「麦藁帽子(Der Florentiner Hut, 1938)」は、ウーファの製作責任者だったウォルフガング・リーベンアイナーが監督し、カール・ホフマンが撮影を担当した、当時としては実験的な映画です。まず、導入部にタイトルや出演者・スタッフの字幕が無く、それらはすべて大道芸人が歌っている歌詞のなかで紹介されます。そして、映画の中では「一人称のカメラ(subjective camera, POVショット)」が頻繁に使用されます。これは主役のハインツ・リューマンの視点から見えることを移しているのですが、婚約者や訪問客とキスをするシーンなど生々しいんですね。さらにプロットを推し進めるのに、ハインツ・リューマンが映画の観客に話しかける(第4の壁を破る)のです。



「一人称のカメラ」は、劇映画では時折挿入されることはあっても、ずっと長回しで使われることはあまりありません。有名な例として、ロバート・モンゴメリーが監督(および主演)した「湖中の女(Lady in the Lake, 1947)」で、これは全編「一人称のカメラ」でフィリップ・マーロウの世界を表現しようとしたのですが、実験的すぎたようです。「麦藁帽子」では、ハインツ・リューマンのコメディということもあって、むしろ良い効果を挙げているかもしれません。 カール・ホフマンは戦争末期にアグファカラーの「すばらしい日(Ein toller Tag, 1945)」にも参加しますが、それが最後の仕事となりました。


美術を担当したハンス・ヤコビー(1904 - 1963)は、むしろ脚本家として有名です。1933年にナチスが政権をとったときにはスペインに亡命、そこで内戦が勃発すると、ローマからパリへと向かいます。しかし、ここもナチス・ドイツによって占領されるわけで、逃げる先々にファシストたちがやってきてしまう。なんとかアメリカに亡命してユニバーサルにもぐりこみます。ここで彼は「オペラ座の怪人(Phantom of the Opera, 1943)」そしてターザンシリーズの脚本を共同執筆します。ハンフリー・ボガートのサンタナ・ピクチャーズの「モロッコ慕情(Sirocco, 1951)」も彼の脚本です。50年代にドイツに帰国し、ハインツ・リューマンのヒット作を書きました。

「誘惑」は恐らく全く人口に膾炙することなく忘れ去られてしまったのでしょう。プリントも存在も確認できません。ランプレヒト監督が「第五階級」の直前に撮った作品ですが、その萌芽はこの作品にあったのか、と言う点は気になりますが。




(1)Hans-Michael Bock, Tim Bergfelder ed., "The Concise Cinegraph: Encyclopedia of German Cinema"


2014年3月27日木曜日

広告に載った九つの映画:誘惑 (前篇)

ゲルハルト・ランプレヒト監督
(「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」の撮影中、filmportal.de

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誘惑
Die Andere
ゲルハルト・ランプレヒト 監督
Gerhard Lamprecht
クセニア・デスニ、 フリッツ・アルベルティ、 エルシー・フラー 出演
Xenia Desni, Fritz Alberti, Elsie Fuller

ファニー・カールセン、イワン・スミス 脚本
Fanny Carlsen, Iwan Smith

カール・ホフマン 撮影
Carl Hoffmann

ハンス・ヤコビー 美術
Hans Jacoby

アルベルト・ポマー、デア・フィルム、ウーファ 製作
Albert Pommer, Dea Film, Universum Film (UFA)

ウーファ 配給
Universum Film (UFA)

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この映画に関しては、スチール写真が見つかりません。ひょっとすると、古いキネマ旬報なんかには載っているのかもしれませんが。
ロッテルダムの名女優、ブランシェ・テルブルックは医者の勧めにしたがって、南仏ニースで療養することに。お供に若いジョーゼットを連れて、ホテルについた直後に、ブランシェは浴室で死んでしまいます。ジョーゼットは、この機会に乗じてブランシェになりきり、リゾート地の注目の的になりますが

監督のゲルハルト・ランプレヒト(1897 - 1974)はドイツ映画界に重要な足跡を二つの意味で残しています。ひとつは、サイレント期から戦時中、戦後は東ドイツそしてその後西ドイツにいたるまで、職人的な映画監督としてヒット作を出し続けたこと、そしてもうひとつは、映画コレクターとしてドイツの映画遺産を後世に遺したという功績があります。彼の代表作は「少年探偵団(Emil und die Detektive, 1931)」で、その他にも「黒騎士(Der Schwarze Huser, 1932)」、「真紅の恋(Spione am Werk, 1933)」など良質なエンターテーメントで知られています。しかし、近年になって見直されているのが、サイレント期に撮られた「第五階級(Der Verrufenen, 1925)」、「私生児(Die Unehelichen, 1926)」、「互いの中の人々(Menschen untereinander, 1926)」という三部作です。これらは、当時のドイツの最下層の人々の生活を描いた社会派の作品で、数年後のキング・ヴィダー監督の「群集(The Crowd, 1928)」や、戦後イタリアのネオリアリスモを先取りしたかのような映像の作品です。「第五階級」は、ハインリッヒ・ツィレの風刺画の世界を再現しようとする試みでした。ベルリンの安アパートに暮らしていた人たち -地方からより良い賃金を求めてきたものの、結局更なる貧困に突き落とされてしまった人たちー の生活を、ユーモアを交えて赤裸々に描いて見せたツィレのイラストは、非常に人気があり、表現主義とは一線を画す、別の大都会の一面を浮き彫りにするものでした。それを下敷きにし、さらに発展させたランプレヒトの作品群は、社会派と位置づけられるものの、その頃台頭しつつあったプロレタリアート映画(ソビエト映画に影響を受けた一派)とは違い、自然主義的なアプローチに終始しています。

「第五階級(Der Verrufennen, 1925)」から
無職の男達
 
トーキーへの転換時期にエーリッヒ・ケストナー原作、ビリー・ワイルダー脚本の「少年探偵団」を撮りましたが、これは爆撃で失われる前のベルリンの街 ―エーリッヒ・ケストナーが描いた街― を写し取った佳作です。30年代もいくつかのヒット作を監督、ナチスが政権を奪取した後も、彼は特に政治的な作風に陥ることはなかったようです。1945年に敗戦した直後、彼はソビエト赤軍管轄下にいてフィルムアクティフ(Filmaktiv)というグループの一員となり、1946年、東ドイツ初の映画スタジオDEFAに参加します。そこで当時のドイツ映画としては珍しい、廃墟のベルリンを舞台とした「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」を監督します。1949年には西ドイツに、そこで数作を監督しますが、このころから彼の関心事は映画史のほうへ移っていきます。彼が若いころに映写技師として働いていたときから収集し始めた膨大な映画のコレクションをもとに1962年にドイツ・シネマテークが設立されました。


「少年探偵団(Emil und die Detektiv, 1931)」

出演者のひとり、フリッツ・アルベルティ(1877 - 1954)は、もともと建築業界で働いていましたが、1920年頃から役者に転向し、1920年代は脇役として人気がありました。1928年だけでも10本もの映画に出演しています。1935年に役者を廃業、ナチス統制下で作られた芸術家などの職業団体NSBOの会計係をつとめ、党の意向に服従しない役者の解雇やゲッベルス基金の管理などを任されていました。

2014年3月24日月曜日

広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (後篇)

「吸血鬼(Vampyr, 1931)」カール・Th.・ドライヤー監督
ルドルフ・マテ撮影

ルドルフ・マテ(1898 - 1964)はポーランド生まれのカメラマン、映画監督です(1)。ブダペスト大学を卒業後、アレキサンダー・コルダのもとで映画界に入ります。ハンガリーでカメラ・アシスタントを経験、その後、カール・フロインドの助手兼セカンドユニットカメラマンを務めます。「海賊ピエトロ」はそのころの作品で、後に出てくる「ミカエル」は、カール・フロインドが室内、ルドルフ・マテが戸外を担当したと言われています。この撮影で、カール・Th・ドライヤーはルドルフ・マテの技術と構成力を高く評価し、「裁かるゝジャンヌ(La Passion de Jeanne d'Arc, 1928)」で彼を起用します。あの、容赦ないクロースアップ、グレーに飛ばした背景、などはマテの類稀なる構図に対する優れた構成力によるところも大きいです。フリッツ・ラングがハリウッドに移る前にフランスで監督した「リリオム(Liliom, 1933)」ルネ・クレールの「最後の億萬長者(Le dernier milliardaire, 1934)」などにも参加した後、ハリウッドに渡り、多くの重要な作品で撮影監督を務めます。
孔雀夫人(Dodsworth, 1936)ウィリアム・ワイラー 監督
マルコ・ポーロの冒険(The Adventures of Marco Polo, 1936)アーチー・メイヨー 監督
海外特派員(Foreign Correspondent, 1940)アルフレッド・ヒッチコック 監督
生きるべきか死ぬべきか(To Be or Not to Be, 1942)エルンスト・ルビッチ 監督



「都会の牙(D.O.A.,1950)」
ルドルフ・マテ監督、アーネスト・ラズロ撮影

1940年代後半から監督に転向します。「都会の牙(D.O.A., 1950)」は最もよく知られたフィルム・ノワールの作品のひとつです。最大の理由はアメリカでパブリック・ドメインに落ちていて、安価でひどい画質のVHSが出回っていたからですが、それでも、この時期に(撮影は1949年)サンフランシスコとロスアンジェルスのロケで、ここまで印象的な映像を見せてくれる作品は稀少です。この映画は賛否両論分かれる作品で、荒唐無稽なプロットとやりきれないセリフで「ノワールの代表作とはとても言えない」という人もいます。しかし、撮影に精通したルドルフ・マテと撮影監督アーネスト・ラズロのとらえた、魔のような夜のロスの風景は飛びぬけてすばらしいと思います。ラストのブラッドベリー・ビルディングは、「ブレードランナー(Bladerunner, 1980)」「アーティスト(The Artist, 2011)」などでもロケーションに使用されました。


イェオリ・シュネーヴォイクト(1893 - 1961)は20年代から30年代のデンマークを代表するカメラマン・映画監督です(2)。宮廷写真家だった母親に連れられて14歳の頃にベルリンに移住、そこでやはりカメラマンとなります。また、マックス・ラインハルトの下で演技も学びます。1912年か13年頃にデンマークに戻り、そこで妻リリー・フォン・クンストバッハと一緒に自分の映画製作会社(Karlbach Kunstfilm, カールバッハ・クンストフィルム)を立ち上げます。そこで数作を製作した後、ノルディスクでカメラマンとなり、カール・Th・ドライヤーの映画(「サタンの書の数頁(Blade af Satans bog, 1919)」、「牧師の未亡人(Prästänkan, 1921」など)で撮影を担当します。1920年代後半から映画監督に転身し、1929年に「ライラ(Laila)」を監督、一躍デンマークの人気監督となります。スカンジナビアの先住民族、サーミ人をテーマにしたこの映画は大ヒットしたようで、シュネーヴォイクト自身によって1937年にリメイクされています。文芸大作からコメディ、ミュージカルまで器用にこなした監督でしたが、息子がナチスに入党、志願して東部戦線にドイツ軍として参加したことがきっかけとなって、一線から身を引きました。




「海賊ピエトロ」のプリントは行方不明だそうです。スチールを見る限り、やはり美術が際立っているように思われます。アルビン・グラウが美術を担当した作品は少ないだけに非常に興味深い作品です。


(1)RUDOLPH MATÉ: Great Cinematographers, http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mate.htm
(2)Issak Thorsen, Lars Gustaf: "Historical Dictionary of Scandinavian Cinema"

2014年3月21日金曜日

広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (中篇)



アルビン・グラウ


「海賊ピエトロ」の美術を担当したのは、アルビン・グラウ(1894 - 1971)。ワイマール時代の映画界に「吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens1921)」という爆弾を落としていった怪人です。ドレスデン芸術アカデミーで学んだ後、第一次大戦に従軍、戦後はベルリンの頽廃を謳歌した芸術家でした。彼は映画のポスターを手がけたり、各種美術に関わっていたりしましたが、その頃、映画「夜への旅(Der Gang in die Nacht, 1921)」を監督していたFW・ムルナウと出会います。グラウは、商売人のエンリコ・ディークマンと組んで、映画製作会社プラナ・フィルムを立ち上げたところでした。彼の頭の中には、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」を原作とした吸血鬼映画のアイディアがありました。意気投合した二人は映画化に取り掛かります。 ムルナウが監督、グラウが衣装・美術を担当(そしてプラナ・フィルムが製作)、脚本はヘンリケ・ガリーン、撮影はフリッツ・アルノ・ワーグナー。しかし、公開時にはあまり反響がなかったようです。さらに、ブラム・ストーカーの未亡人に著作権侵害で訴えられ(プラナ・フィルムは版権を確保していませんでした)、映画の上映は差し止め、プリントは焼却するように命じられました。かろうじて焼却をまぬかれた5本のプリントが現在残っており、先年修復されてほぼ完全に近い形まで復元されました。

プラナ・フィルムは「ノスフェラトゥ」一本のみで破産、グラウは再びディークマンと組んで新しい映画製作に乗り出します。その作品がアルトゥール・ロビソンを監督にすえた「恐怖の夜(Nächte des Grauens)」とこの「海賊ピエトロ」、そしてループ・ピックが監督した「野鴨(Das Haus der Lüge, 1928)」でした。しかし、これを最後にグラウは映画製作に興味を失います。彼は第一次大戦中からオカルトに異常な興味を持っていて、「ノスフェラトゥ」自体も戦地で聞いた不思議な物語に触発されたものでした。「ノスフェラトゥ」自体はオカルトの要素はむしろ抑制されているのですが、オルロック伯爵からノックへの手紙に見られる奇怪な文字などに、グラウの興味が反映されています。彼はベルリン・パンソフィア協会(100人以上の会員のいた有名なオカルトの団体)の理事を務めていて、「東方騎士団」の会合にも顔を出していました。1925年に有名なオカルティスト、アルスター・クローリーに出会ってからは、完全にのめりこんでしまいます。ベルリンを中心に積極的に活動し、土星同胞団(Fraternitas Saturni)のメンバーにもなります。このオカルトへの傾倒が原因で、彼はナチスに追われる身となりました。一部の文献では(IMDB)、彼は1942年にブッヘンヴァルト強制収容所で亡くなったことになっています。しかし、近年の調査で、彼は娘とともにスイスに亡命、1971年までバイエルン州のバイリッシュツェルで生存していたことがわかっています。晩年は絵を描いて暮らしていたようです。


「ノスフェラトゥ」:オカルト文字で書かれた手紙


アルノ・フリッツ・ワーグナー(1889 - 1958)。カール・フロイントとならんで、1920年代のドイツ表現主義映画の撮影カメラマンとして最も重要な人物です。彼の作品リストを挙げるだけで、そのままドイツ表現主義の教科書になるような作品群です。

パッション(Madame Du Barry, 1919)エルンスト・ルビッチ 監督
フォーゲルエート城(Schloss Vogeload, 1921) FW・ムルナウ 監督
死滅の谷(Der müde Tod, 1921) フリッツ・ラング 監督
ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens, 1922FW・ムルナウ 監督
燃ゆる大地(Der brennende Acker, 1922FW・ムルナウ 監督
懐かしの巴里(Die Liebe der Jeanne Ney, 1927GW・パブースト 監督
スピオーネ(Spione, 1928)フリッツ・ラング 監督
淪落の女の日記(Tagebuch einer Verlorenen, 1929GW・パブースト 監督
西部戦線一九一八年(Westfront 1918, 1930GW・パブースト 監督
三文オペラ(Die 3 Groschen-Oper, 1931GW・パブースト 監督
MM, 1931)フリッツ・ラング 監督
炭鉱(Kameradschaft, 1931GW・パブースト 監督
怪人マブゼ博士(Das Testament des Dr. Mabuse, 1933)フリッツ・ラング 監督

「M」撮影中のフリッツ・ラング(左)とアルノ・フリッツ・ワーグナー(右)

ワーグナーはパリのエコール・デ・ボザールで学んだ後、パテ映画社で事務やシェフの仕事をしながら映画界に入っていきます。1913年に彼はニュース映画のカメラマンになり、メキシコ革命の様子を撮影したりしていました。第一次大戦とともに召集に応じ、そこでもカメラマンとして従軍したようです。負傷した後、PAGU社にカメラマンとして雇われ、その後PAGU社がウーファに吸収されると、ウーファへ、1919年にはデクラ=バイオスコップ社で第一カメラマンとなりました。
1920年代は怒涛のごとく重要な作品でカメラを担当します。
ナチスの政権獲得後も「紅天夢(Amphitryon, 1935)」や「世界に告ぐ(Ohm Krüger, 1941)」などの大作で活躍しています。この頃の彼の作品は「かつての盟友たちが国外に脱出してしまって冴えない」とか「かつてのひらめきが見られない」とか言われることが多いのですが、確かに創造的な仕事は少ないようです。戦後は、ドキュメンタリーなどを撮っていましたが、再起をかけていくつかの映画に参加していたところ、1958年に交通事故で亡くなってしまいました。

2014年3月17日月曜日

広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (前篇)


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海賊ピエトロ
Pietro der Korsar

1925

アルトゥール・ロビソン 監督
Arthur Robison

パウル・リヒター、アウド・エギデ=ニッセン、ルドルフ・クライン=ロッゲ 出演
Paul Richter, Aud Egede-Nissen, Rudolf Klein-Rogge

ウィルヘルム・ヘーゲラー 原作
Wilhelm Hegeler

アルトゥール・ロビソン 脚本
Arthur Robison

ルドルフ・マテ、イェオリ・シュネーヴォイクト、フリッツ・アルノ・ワグナー 撮影
Rudolph Maté, George Schnéevoigt, Fritz Arno Wagner

アルビン・グラウ 美術
Albin Grau

エーリッヒ・ポマー、ウーファ 製作
Erich Pommer, Universum Film (UFA)

ウーファ 配給
Universum Film (UFA)
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石油王の御曹司、ピエトロは、海賊の自由気ままで冒険に満ちた生活にあこがれていた。孤島にある父親の城にいたところ、ピエトロは海賊に襲われ。とらわれの身となった。しかし、海賊の首領サルバトーレはかつてピエトロが命を救ってやったことがあった男だった。サルバトーレはピエトロを仲間に加え、海の無法者たちが暴れ始める...

20世紀はじめの人気作家、ウィルヘルム・へーゲラーの原作をもとにアルトゥール・ロビソン監督、エーリッヒ・ポマー製作のウーファ映画です。

監督のアルトゥール・ロビソン(1883 - 1935)は、アメリカのシカゴ生まれのドイツ系アメリカ人で、ミュンヘンで医学を学んでいましたが、1916年に映画の道へ進みます。デビュー作が「恐怖の夜(Nächte des Grauens)」で、エミール・ヤニングス、ウェルナー・クラウスらが出演した吸血鬼映画だったようです(プリントの存在は確認されていません)。1923年に「戦(おのの)く影(Schatten Eine nächtliche Halluzination)」(YouTube)を監督します。男爵とその美しい妻、そしてその妻に言い寄る男達。「影使い」の男が、これから起こる悲劇の幻影を彼らに見せるという幻想作品で、「影」と「鏡」をモチーフにした、印象的な作品です。この「海賊ピエトロ」はその直後の作品です。後ほど取り上げますが、美術のアルビン・グラウとは「戦く影」と「海賊ピエトロ」で共同しています。ロビソンはその後も「マノン・レスコー(Manon Lescaut, 1926)」「パンチネロ(Looping the Loop, 1928)」(YouTube 一部)、イギリスで「密告者(The Informer, 1929)」ドイツに戻って「プラーグの大学生(Der Student von Prag, 1935)」と精力的に活躍しますが、1935年に早逝してしまいます。

戦く影(1923)
  
主演のパウル・リヒター(1895 - 1961)は、フリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」でジーグフリートを演じた男優です。ウィーンで演技を学んだあと、ドイツで映画に出演するようになります。彼はこの映画でも共演しているアウド・エギデ=ニッセンと結婚、他の多くの作品で共演もしています。リヒターはその典型的な「アーリア人」の風貌のため、サイレント期から英雄の役どころが多かったようですが、ナチ政権下ではババリアなど山岳地帯を舞台にした作品を中心に仕事をし、戦後も「郷土映画(heimatfilms)」と呼ばれる、ドイツ語圏独特のジャンル映画に数多く出演していました。

アウド・エギデ=ニッセン(左)とパウル・リヒター
「海賊ピエトロ」

共演のルドルフ・クライン=ロッゲ(1885 - 1955)は、映画史上、マッド・サイエンティストの原型となったロトワング博士、そしてやはり映画史上の犯罪組織黒幕の原型となったマブゼ博士を演じた俳優です。フリッツ・ラング監督「メトロポリス」のロトワング博士は、ユニバーサルの「フランケンシュタイン」シリーズに影響を与え、特に「フランケンシュタインの復活(Son of Franknstein, 1939)」のなかでライオネル・アトウィル演じるクローグ警視になり、これを見たスタンリー・キューブリックによってストレンジラブ博士(「博士の異常な愛情」)に昇華していきます。クライン=ロッゲは長い間ニュールンベルグの舞台の人気俳優でした。その時期(1910年代)、テア・フォン・ハルボウと結婚していましたが、彼は主演俳優として12000ドイツマルク、ハルボウは脚本家として100000ドイツマルクを稼いでいました。しかし、二人は「よりよい条件を求めて」ベルリンに移ります。ベルリンでは泣かず飛ばずのクライン=ロッゲでしたが、ハルボウの方は人気脚本家となり、やがてフリッツ・ラングと組んで映画に乗り出します。二人は離婚したものの、ハルボウの強い要請で、クライン=ロッゲはフリッツ・ラングの映画で重要な役を演じます。この時期が彼の全盛期なのですが、フリッツ・ラングのドイツ脱出とともに、彼の人気も下降していきます。ハルボウ脚本・監督の映画「Elizabeth und der Narr」などにも出演しますが、ゲッベルスが彼のことを嫌っていたこともあって、脇役へ回されるようになります。戦後、フリッツ・ラングに映画出演の交渉を申し込みますが、頓挫。世間からはほぼ忘れ去られてしまいました。

「メトロポリス」撮影セットでのクライン=ロッゲ

 
フリッツ・ラングにメイクアップされているクライン=ロッゲ

2014年3月13日木曜日

広告に載った九つの映画:心の喜劇 (後篇)

ウィリアム・ウェルマン監督「また会う日まで」
左がセオドア・スパールクール

「心の喜劇」の話に戻って、撮影監督のセオドア・スパールクール(1894 - 1946)は、ハノーバー生まれ。映写機のセールスマンをしていたところへ、ニュース映画のカメラマンとしての仕事で雇われ、第一次大戦中はロシアから中東まで題材をもとめて飛び回っていました。1916年から、エルンスト・ルビッチの(ほぼ)専属カメラマンとなり、ルビッチがアメリカにわたるまで彼の作品を担当します。1928年のG・W・パブーストの「邪道(Abwege)」を最後にドイツを離れ、イギリス、そしてフランスで仕事をします。ジャン・ルノワールの「坊やに下剤を(On purge bébé, 1931)」「牝犬(La Chienne, 1932)」などでも仕事をしています。その後渡米、1940年代には「ガラスの鍵(The Glass Key, 1942)」などフィルム・ノワールのさきがけになる作品を担当しています。

ガラスの鍵
(セオドア・スパールクール撮影)

「心の喜劇」の主演、リル・ダゴーヴァー(1887 - 1980)はドイツサイレント期を代表する女優です。「カリガリ博士」「死神の谷」「ドクトル・マブゼ」などに出演しています。一方、アレクサンダー・ムルスキ(1869 - 1943)は、ロシア出身の俳優。ロシア革命のときに国を脱出、1917年にベルリンに現れます。1920年代は主に判事や検事などの役をつとめました。彼はユダヤ人であり、ナチスの台頭とともにフランスに逃げます。そこでロシア移民たちの劇場に出演していましたが、ドイツの侵攻とともに地下組織にもぐりこみ、その後の消息は定かではありません。

この映画は、舞台美術に長けた人たちが関わった作品です。話題にならないのですが、プリントは存在しているのではないでしょうか。これだけの人物たちが関わった作品なので非常に興味があります。

2014年3月10日月曜日

広告に載った九つの映画:心の喜劇 (中篇)

ロベルト・ヘルルト

ワルター・レーリッヒ
 「心の喜劇」で美術を担当しているのは、ロベルト・ヘルルト(1893 - 1962)とワルター・レーリッヒ(1892 - 1945)です。このコンビは映画における「ドイツ表現主義」の風景を作った張本人たちと言っていいのではないでしょうか。

レーリッヒは「カリガリ博士」ですでに美術として参加しています。その後、ヘルルトとコンビを組み、フリッツ・ラングの「死神の谷(1921)」、G・W・パブーストの「財宝(Der Schatz, 1923)」(YouTube)、フォン・ガーラッハの「王城秘史(Der Chronik von Greihuus, 1925)」、ジョー・マイの「アスファルト(1929)」を担当します。何よりも、ムルナウの映画には欠かせない美術監督たちでした。「最後の人」「タルチェフ」「ファウスト」、さらにムルナウのハリウッド作品「四人の悪魔(Four Devils, 1928)」まで美術を担当します。30年代も「会議は踊る(Der Kongress tanzt, 1930)」「紅天夢(Amphitryon, 1935)」などをコンビで担当しています。二人の担当については、文献によってまちまちで、バーデンハウゼンのようにヘルルトは衣装やアクセサリを担当していたと言う人もいれば、ロッテ・アイズナーのようにセット全般を担当していた、という人もいます。

「ファウスト」のセットを準備するヘルルトとレーリッヒ
ヘルルトとレーリッヒの二人で共同監督をした「運のいいハンス(Hans im Glück, 1936)」は、大失敗作でした。もともと1934年にウーファ社内で「金がかかる上につまらない」として却下された脚本でした。グリム童話にも採られているドイツの民話で、いわゆる「わらしべ長者」の正反対の話です。永年の働きの給与として金塊をもらったハンスが、母親に会いに家に戻る間に多くの人間に騙されて、金塊を馬に、馬を牛に、と交換していき、最後には砥石になってしまうのですが、それも川に落としてしまう。「ああ、これでせいせいした」とハンスは意気揚々と家路につく、と言う話です。この話に眼をつけたのが、ウーファに吸収されたデルタという会社でした。ここはナチス党の息のかかった会社で、配給は帝国プロパガンダ局。脚本は党の方針に沿って書き直され、ドイツの農村生活を豊かに描いて「農本主義」をことさらに強調するものになりました。ヘルルトとレーリッヒは、もちろん美術も自分たちで設計し、党のバックアップで湯水のように製作費を使ったのです。ロケーション撮影にはアーノルド・レーター、ジョセフ・ディートリッヒのような党の幹部も顔を出し、宣伝も製作時から豊富に行っています。中世の村のセット ーまるでデューラーの版画のようなー だけで10万帝国マルクもかかっています。1936年の1月に完成したもの、情報省での試写は不評。半年かけて90分あったものを1時間程度まで編集し、7月3日にウーファ・パラスト・アム・ズーでプレミア公開したのですが、上映は嘲笑とブーイングの嵐となり、たった一日で上映は取りやめられました。

「運のいいハンス」
「運のいいハンス」撮影風景
後ろのセットは建設中

「運のいいハンス」

とは言え、この「デューラーの版画のような」幻のようなセットの画像を見ると、それはそれで見てみたいですね。

この後、二人は共同で仕事をしなくなり、レーリッヒはいくつかのプロパガンダ映画の美術を担当、敗戦の年に亡くなります。ヘルルトは戦後も美術監督の仕事を続けました。二人がパートナーをやめた理由として「ナチに傾倒したレーリッヒをヘルルトが嫌悪した」などという記述も見られますが、定かではありません。むしろヘルルト自身が自由に仕事が出来ない状態にあったことが大きな原因かもしれません。彼の妻はユダヤ人で、ナチス統制下では彼自身も二級市民扱いです。ところが、彼の妻は収容所送りになっていないというエピソードがあります(1)。

他にも、レニ・リーフェンシュタールが自分の立場を利用して、危険な立場にいる人間を助けた例がある。自身も1933年に移住を余儀なくされ、レニ・リーフェンシュタールに対しては最も批判的な映画史家、ロッテ・アイズナーの回想記に次のような話がある。ロベルト・ヘルルトの妻はユダヤ人だったが、ゲシュタポによる逮捕を彼女が阻止したと言うのである。ヘルルトは、リーフェンシュタールの「オリンピア」のプロローグのセットを担当していたが、リーフェンシュタールに助けを求め、彼女はすぐに対応して、ヘルルトの妻の安全を確保した。このことは、ヘルルト自身が、アイズナーに戦後語ったことである。ー ユルゲン・トゥリンボーン「レニ・リーフェンシュタール」より

リーフェンシュタールは、使える男がいなくなると困るから動いたのか、それともかわいそうだと思ったのか。ナチに傾倒した人間が嫌になったのか、うまくいかないことがあって付き合わなくなったのか。そのあたりはもうわかりません。


(1)Jurgen Trimborn, "Leni Riefenstahl: A Life"

2014年3月8日土曜日

広告に載った九つの映画:心の喜劇 (前篇)


「心の喜劇」
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心の喜劇
Komödie des Herzens

1924

ロフス・グリーセ 監督
Rochus Gliese

リル・ダゴーヴァー、ナイジェル・バリー、アレクザンダー・ムルスキ 出演
Lil Dagover, Nigel Barrie, Alexander Murski

ソフィー・ホッホスタッター 原作
Sophie Hochstätter

ロフス・グリーセ、F・W・ムルナウ 脚本
Rochus Gliese , F.W. Murnau

テオドル・スパールクール 撮影
Theodor Sparkuhl

ロベルト・ヘルルト、ワルター・レーリッヒ 美術
Robert Herlth, Walter Röhrig

エーリッヒ・ポマー、ユニオン・フィルム 製作
Erich Pommer, Union-Film

ウーファ 配給
Universum Film (UFA)

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有名ダンサーのゲルダはヴィンゼンス男爵と長い間進展の無い関係を続けている。ヴィンゼンス男爵は遠い親戚の城に移り住むことになり、そこに住んでいたインゲという娘と恋に落ちた。その町にゲルダの劇団がやってくる...

これは、「美術監督」が多く関わっている映画です。監督のロフス・グリーセ(1891 - 1978)は、美術監督として有名な人物です。大学で美術史を専攻したのち、ベルリンの舞台で衣装を担当していました。この頃から表現主義(映画の表現主義ではなく、美術界での表現主義です)の影響を強く受け始めました。1913年、「プラハの大学生(Der Student von Prag)」(YouTube)で衣装を担当してから、パウル・ヴェゲナーの映像作品に深く関わるようになります。「ゴーレム」はヴェグナーにより三度映画化されましたが、グリーセはすべてで美術あるいは衣装を担当しています。またその後は、F・W・ムルナウ(この映画でも、脚本に関わっています)の作品でも美術を担当しています。「燃ゆる大地(Der brennende Acker, 1922)」(YouTube)「追放(Die Austreibung, 1923)」「大公の財政(Die Finanzen des Grossherzogs, 1923 )」(YouTube)とムルナウ作品の美術を担当し、1927年には彼と共にハリウッドに渡って「サンライズ(Sunrise, 1927)」の美術・セットを担当します。「サンライズ」がその後のハリウッドに与えた影響は計り知れません。ディープ・フォーカス(パン・フォーカス)を多用した構図、遠近法を強調したセット、セットを縦横無尽に動くカメラ、どれをとっても非常に緻密に計算された作品です。たとえば、街のオープンセットは、カメラの位置から遠くなるほど建物や車を小さくし、遠近法を強調することで広さを表現しています。(遠景では小人症のエキストラを配置しました。この手法はマイケル・カーチスが「カサブランカ(1942)」で使っています。)部屋の内部でさえ、カメラの位置にあわせたパースペクティブで作られています。このときのグリーセのアシスタントにエドガー・G・ウルマーもいます。

「サンライズ(1927)」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)

「サンライズ」


「サンライズ」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)

「サンライズ」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)
「サンライズ」
ハリウッドからドイツに戻ったのちは、主に舞台美術を担当するようになります。特にナチスが政権を握ってからは、グスタフ・グリュンドゲンス(Gustaf Gründgens)の庇護のもと、ベルリンのヘッセン州立劇場の美術担当となります。グリュンドゲンスは、自身ゲイであることを公にしており、ゲッベルスやヒムラーは今にでも強制収容所送りにしたいと思っていたのですが、ヘルマン・ゲーリングの大のお気に入りの俳優でした。ゲーリングは彼のパトロンとなるばかりでなく、ヘッセン劇場のトップに任命までしました。グリュンドゲンスは、その立場を利用して、彼の元でゲイや旧共産党員などの芸術家をナチスの手が届かないようにかくまっていたと言われています。彼はトーマス・マンの娘エリカ(彼女もゲイでした)と一時期結婚しており、その弟のクラウス・マン(彼もゲイでした)と一緒に暮らしていた時期がありました。このクラウス・マンが、ナチスに屈したグリュンドゲンスを題材にした「メフィスト」をアムステルダムで出版、戦後にドイツ語版が出版され物議を醸しました。

グスタフ・グリュンドゲンス
フリッツ・ラングの「M(1931)」


2014年3月5日水曜日

広告に載った九つの映画:大暴風 (後篇)

「大暴風」
アルウィン・ノイシュ(1879 - 1935)は、ケルン生まれの俳優です。1914年に「バスカビル家の犬」でシャーロック・ホームズを演じて、一躍人気俳優になります。デンマーク、ノルディスクの映画「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1910)」で主演し、ここでは一人二役をこなします。1914年には同じ題材でドイツ・ヴィタスコープ社で主演。デンマーク版はプリントの存在が確認されていないのですが、ドイツ版は不完全ながらもプリントが発見され、修復されました。1920年代からはノイシュの人気も低迷して、出演映画の数も減ってしまいます。1933年にナチスが政権を掌握した後、ナチス党の労働組合であるNSBOに参加しますが、56歳で世を去ります。最後は忘れ去られてしまった俳優ですが、彼が1910年代に演じていたタイプの役柄は、コンラート・ファイトやロン・チェイニーなどの俳優たちが1920年代以降に演じる怪人の原型にもなっていると思います。たとえば、1914年のノイシュ/ドイツ版の「ジキル博士とハイド氏」のメークアップはスチールで見る限りなかなか衝撃的です。1920年のエーリッヒ・ポマー製作/F・W・ムルナウ監督の「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf)」のスチール(これもプリントの存在が確認されていません)に見られるコンラート・ファイトのメークアップは明らかにノイシュの影響が見られます。彼がデンマーク時代に出演した映画に「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」というのがあって、非常に気になります。そういえば、フリッツ・ラングの「スピオーネ(1928)」も日本のスパイが題材でしたね。

「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1914)」
左がアルウィン・ノイシュ

F・W・ムルナウの「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf, 1920)」
中央がコンラート・ファイト、
右は(ハリウッドでドラキュラになる前の)ベラ・ルゴジ


「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」

撮影のクルト・シュタンケ(1903 - 1978)は、この映画がカメラマンとしてのデビューです。彼は、この後ドキュメンタリー、ショート・プログラムのカメラマンとして一年に数本のスピードで量産していきます。特に彼が1930年代後半にマルティン・リクリ監督の下で撮影した一連の「プロパガンダ科学映画」というのがあります。「太陽、地球、月(Sonne, Erde und Mond, 1938)」「雲の交響楽(Sinfonie der Wolken, 1939)」「ラジウム(Radium, 1941)」「風の問題(Windige Probleme, 1942)」などの作品で、科学のテーマを取り上げながらも、第三帝国の関心事にいかに科学が役立つかという方へ話が向いていくという映画のようです。マルティン・リクリはチューリッヒ生まれの科学者で、写真化学を専門としていましたが、1920年代よりドキュメンタリー映画の製作に深い関心を持つようになりました。1930年代には、ナチスの庇護の下で多くの科学ドキュメンタリー映画を監督しましたが、戦況が悪くなった戦争末期にはスイスに帰国、以前出版した自伝「私は百万の民のために撮影した」も都合よく書き換えてしまいました。一方、クルト・シュタンケは戦後もドキュメンタリーを撮影し続けたようです。

美術のフランツ・シュレーターは、1925年からカール・フレーリッヒ監督と組んで作品を作ることが多くなりました。もともと精力的な仕事人だったようですが、ドイツ国内の多くの美術監督がハリウッドへ移ってしまったり、ナチスの台頭と共に国外へ逃亡する中、仕事が増え続け、最も人気の美術監督となります。「フリードリッヒ・シラー - 天才の勝利(Friedrich Schiller - Der Triumph eines Genies、1940)」(YouTube)や「オーム・クルーガー(Ohm Krüger、1941)」(YouTube)などが代表作です。戦後は自分の製作会社で短編映画を製作したりしていましたが、ピーター・ローレが「ドイツ映画の黄金時代よもう一度」とドイツに帰国して監督・主演した「失われた男(Der Verlorene, 1951)」(YouTube)で美術を担当しました。

ピーター・ローレ監督・主演「失われた男(Der Verlorene, 1951)」
美術:フランツ・シュレーター

 
 
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