2015年10月2日金曜日

『戦慄の調べ(1945)』



今回のUNKNOWN HOLLYWOODは、ハリウッド・ホラーの系譜を追います。上映作品は『戦慄の調べ(Hangover Square, 1945)』二十世紀フォックスの代表的なミステリー・ホラー作品です。1930年代から40年代のハリウッドのホラーといえば、ユニバーサルのモンスター達(『ドラキュラ(Dracula, 1931)』、『フランケンシュタイン(Frankenstein, 1931)』)がすぐに思い浮かびます。あるいはRKOの『キャット・ピープル』などアトモスフェリックなホラー映画を手がけたプロデューサーのバル・リュートン、監督のジャック・ターナーなどが好きな方もいるでしょう。そういった評価の定まったホラー映画から少し離れたところにある他のスタジオの作品や、あるいはホラー映画の雄とさえ呼ばれたユニバーサルの作品の中でも歴史に埋まっていったホラー映画があります。その中でも二十世紀フォックスで活躍したジョン・ブラーム監督の作品は再評価されるべきでしょう。

19世紀後半のロンドン。霧の街の夜闇に隠れて、殺人放火事件が発生します。殺されたのはフルハム街の骨董商。警察は犯人探しは難航しますが、ある一人の男が現れます。「事件が起きた時刻の記憶がない、気がついたら血が付いたコートを着ていた」というその男は、ジョージ・ボーンズ、将来を嘱望される新進気鋭の作曲家です。彼は果たして殺人を犯したのか。シャーロック・ホームズが「帝国のゴロツキと怠け者たちが集まる汚物溜」と呼んだロンドンの夜を舞台に奇怪な物語が展開します。


この作品の持つ、強い負のエネルギーを牽引するのは、主演のレアード・クリーガー(1913 - 1944)。夭折の天才俳優です。1940年、27歳の彼は舞台『オスカー・ワイルド』で主演をつとめて、一気に西海岸の演劇界の注目を集めました。ハリウッドのスタジオから様々なオファーを受けた彼が、映画で最初に注目を浴びたのが『血と砂(Blood and Sand, 1941)』タイロン・パワーとの共演でした。しかし、彼の演技派俳優としての名声を不動にしたのは『I Wake Up Screaming (日本未公開, 1941)』初期フィルム・ノワールの傑作です。ここでのクリーガーの演技は鉛のように重く、見た者をしばらく放心させてしまうような、異様なエネルギーに満ちたものでした。その後、『拳銃貸します(This Gun for Hire, 1942)』『天国は待ってくれる(Heaven Can Wait, 1943)』などで手堅い演技を重ねていきます。
レアード・クリーガー

 しかし、1943年にパートナーだった男性が謎の死を遂げることや、同じような役回りしか来ないことなど、ストレスを感じることが多くなり、自分のイメージチェンジをはかろうと、過激なダイエットに励むようになります(当時のクリーガーは130キロ以上あったそうです)。異常に歪んだキャラクターを演じることを、誰よりも忌避しながらも、一方で誰よりもそれを見事にやり遂げてしまう、そのクリーガーの矛盾の結晶が『下宿人(The Lodger, 1944)』と『戦慄の調べ』の二作です。『戦慄の調べ』の時には、彼はあまりに過激なダイエットを敢行し、おそらく薬物服用の影響による精神の消耗から、それまでとは全く違う、横暴で手に負えない人物になってしまった、と記録されています。クリーガーはクランクアップ後、ダイエットのために胃バイパス手術を受けます。ただ、彼の心臓はすでに弱っていたようです。1944年の12月9日、心臓発作のため、31歳の短い生涯を閉じました。彼が映画界にいたのは、わずかに4年です。しかし、もし彼が現在の映像作品に出演しても、その作品の全てを引っ張っていって、彼のものにしてしまうような、そんな恐ろしいまでの存在感があります。
 
この映画のもう一つの主役は音楽、それを担当したのは、ハリウッド映画音楽史のなかで、マックス・スタイナーと並んで、最も高く評価されている作曲家、バーナード・ハーマン(1911-1975)です。ニューヨーク市にユダヤ人中流家庭の子として生まれ、13歳の時にはすでに作曲のコンペティションで優勝するなど、音楽の才能は早くから認められていたようです。ニューヨーク大学、ジュリアード大学で音楽を学んだ後、CBSにオーケストラ指揮者として就任します。1930年代、ラジオがノヴェルティから大衆の娯楽への変容していくなかで、ハーマンは実験的な番組製作に積極的に関わっていきます。『コロンビア・ワークショップ』は前衛的なメディア表現の試みとして画期的な番組でしたが、その中心人物であり音楽を担当していたのがハーマンです。また、当時ラジオ番組製作にマーキュリー・シアターが乗り込んできており、オーソン・ウェルズとも共同で仕事をしています。

バーナード・ハーマン

1941年、オーソン・ウェルズが『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』を監督した際、音楽をバーナード・ハーマンに依頼しました。この時から、ハーマンはハリウッド映画の仕事を数多く引き受けるようになり、ウェルズ(『偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons, 1942)』)そして、ヒッチコックの映画(『ハリーの災難(The Trouble with Harry, 1955)』から『マーニー(Marnie, 1961)』まで)あるいはトリュフォーの『華氏451(Fahrenheit 451, 1966 )』など、多くのスコアを残しました。彼の最後の作品は、マーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー(Taxi Driver, 1976)』です。

『戦慄の調べ』では、ハーマンはクライマックスで演奏されるピアノ協奏曲を作曲しています。この曲のスタイルが、19世紀後半の音楽のスタイルを正確に反映しているかどうかは、議論のあるところですが(当時はロマン派から後期ロマン派にかかる時期だと思われるので[注])、この曲が映画全体に与える翳りの和音は、映像を響鳴する場所として用いつつ、それ自体が独立した音響を持っている、稀有な作品でしょう。この作曲家の同じ手によって、『サイコ』のシャワーシーンの切り裂くバイオリンの音と、『タクシー・ドライバー』のサックスの音が作られたと思うと、そのボキャブラリの豊かさに驚嘆せざるを得ません。

『サイコ』組曲

『タクシー・ドライバー』より

監督はジョン・ブラーム。ハンブルグの生まれで、俳優から舞台監督に転向し、ヒトラーが政権につくまではベルリンの劇場で人気だったようです。しかし、ナチスの台頭とともに祖国を離れ、まずイギリスで初めて映画を監督します。デビュー作はD・W・グリフィスの『散り行く花』のリメイクでした。ハリウッドに渡ったあとはコロンビア、二十世紀フォックスで手堅い作品を残しています。特に二十世紀フォックスのホラー三作品『Undying Monster, 1943』『下宿人』『戦慄の調べ』は彼のハリウッドでのキャリアの頂点に位置するかもしれません。1950年代の後半から多くのTV番組の演出を手がけます。『ヒッチコック劇場』『トワイライト・ゾーン』などで幾つかのエピソードを担当しています。

『戦慄の調べ』でファム・ファタルを演じるのは、リンダ・ダーネル(1923-1965)。キャリアの浮き沈みが激しい女優でしたが『永遠のアンバー(Forever Amber, 1947)』などで印象深い演技をしています。しかし、自宅の火災で41歳の若さで亡くなります。

リンダ・ダーネル

犯罪学者ミドルトンを演じるのは、永遠の『くそったれ野郎(cad)』ジョージ・サンダース(1906- 1972)です。ロシア生まれのイギリス人、生来の皮肉屋で女たらしだった彼は、その本来の彼自身がにじみ出る、にもかかわらず魅力的な、不思議な俳優でした。『海外特派員(Foreign Correspondent, 1940)』『イヴの総て(All About Eve, 1950)』などが代表作です。サンダースは後年、病に苦しみ、最後は「退屈だ」という遺書を残して自殺したのは有名な話です。


ジョージ・サンダース

撮影はジョセフ・ラシェル(Joseph LaShelle, 1900-1989)。スタジオ時代は主に二十世紀フォックスで仕事をし『我が谷は緑なりき(How Green Was My Valley, 1941)』ではオペレーターでしたが、その後撮影監督に、『ローラ殺人事件(Laura, 1944)』『堕ちた天使(Fallen Angel, 1945)』などのフォックス・スタジオ独特のフィルム・ノワールを手がけています。


追記(2015.10.4)
[注]この作品の舞台は『20世紀初頭のロンドン』となっています。しかし、映画全体から受ける印象は、ヴィクトリア朝のロンドンであり、ジョン・ブラーム=レアード・クリーガーコンビの前作『下宿人』の元となった切り裂きジャックのロンドン(1888)です。

2015年7月12日日曜日

『マイホーム騒動記(1942)』





次回のUNKNOWN HOLLYWOOD上映作品は『マイホーム騒動記(1942)』。都会のアパート暮らしが気に入っている夫(ジャック・ベニー)と、とにかく由緒正しい歴史のあるものが好きな妻(アン・シェリダン)。その妻が、二百年前の崩壊寸前の田舎の一軒家を夫に黙って購入。初代大統領が泊まった家だと聞いて、すっかりのぼせ上がったのです。曲者の隣人プレスコット、曲者すぎて怖可笑しい地元民キンバー、移り気すぎる妹にどケチな叔父。ちょっと普通じゃない人たちが、皮肉屋ジャック・ベニーの皮肉を焼いて食う、そんな映画です。



原題は "George Washington Slept Here"ージョージ・ワシントンがここで寝たーです。「ここで寝た」とは「この家に泊った」という意味。不動産業界では、歴史上の人物と関わりがある土地や家にプレミアがつく傾向にありますが、アメリカの不動産業界でもそれは同じ。「セオドア・ルーズベルトが泊まった家」「ジュディ・ガーランドが泊まった部屋」というのは、それだけで価値が高くなります。そんな中でも「ジョージ・ワシントン初代大統領が泊まった家」というのは、不動産業界の決まり文句のようになっているそうです。ティモシー・フットによれば、ジョージ・ワシントンは1750年代は「最初は地理調査のために、その後は植民地軍士官として」西部を彷徨し、ヴァージニア州のマウント・ヴァーノンにプランテーションを所有した後も、大陸議会に出席するためにフィラデルフィアに住み、独立戦争後に初代大統領になってからは「心許ない新しい合衆国の国民」たちに直接会うために、各地で遊説を行い、「数限りない旅館や宿」に泊まったといわれています。だからこそ、信憑性があり、また同時に真偽が確かめにくい「ブランド」として不動産売買で流通してしまったのでしょう。

バイオリンを弾くジャック・ベニーとハリー・トルーマン元大統領(1959)
Wikipedia
『マイホーム騒動記』の焦点は、なんと言ってもジャック・ベニーです。日本では、エルンスト・ルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか(To Be Or Not To Be, 1941)』のハムレットを演じたがる役者ジョセフ・トゥーラの役が有名ですが、一方でそれ以外の活動はあまり知られていないのではないでしょうか。彼は1930~40年代にラジオ番組で人気を博し、その後1950年代にTVに移行していった、コメディアン、俳優です。1910年代にボードビル芸人としてデビュー、マルクス兄弟とも交流がありましたが、1932年にカナダ・ドライが提供するラジオ番組に主演して以来、彼の出演するラジオ番組は大成功を収め続けたのです。

ジャック・ベニーはボードビル出身だが、彼のユーモアのスタイルはラジオに適していた。彼のコメディは身体的な笑いには頼っていない。彼のコメディは、彼が何を言ったか、どういう風に言ったか、そして何よりも大事なのは何故言ったか、である。
ベニーはコメディの中で、彼が演ずるキャラクターが(視)聴者の心の中にしっかりと焼きつくような、そういうアプローチをとった。そのキャラクターとは、いつも安っぽくて、ケチで、見栄っ張りだ。

"Radio Live! Television Live!: Those Golden Days When Horses Were Coconuts" Robert L. Mott (2003)

「命か、金か」と強盗されても、「ちょっと考えているから待ってろ」と言ったり、高尚なオペラの話に加わろうとして「うるさい!」と言われる・・・・そういったキャラクターを作り上げて、30年にわたって、アメリカのマスコミを代表するエンターテーナーに君臨していました。当時のラジオ番組は「ラッキー・ストライク・プログラム、主演ジャック・ベニー」と言う風にスポンサーとなっている会社の製品が番組のタイトルだったのですが、1940年代に「ジェル-O・プログラム」を彼が担当した時には、あまりに人気が出てしまってジェル-O(インスタントのゼリー)が爆発的に売れて生産が間に合わなかったそうです。彼は番組のスポンサーと良好な関係を保つことを何よりも最優先させ、広告会社ともタイアップしてギャグやスキットを考える、といったビジネスマンでもあったのです。

監督のウィリアム・ケイリー(キーリーと発音するようです)もあまり馴染みのない映画監督かもしれません。しかし、1930年代にはワーナー・ブラザーズのギャング映画、1940年代にはコメディを監督して堅実にヒットを飛ばしています。意外にも『情無用の街(Street With No Name, 1948)』というギャングもののフィルム・ノワールの佳作も残していて、ギャング映画のジャンルではなかなか手堅い作風を見せています。この監督も映画界よりもラジオに軸足を移していきました。しかも番組の監督ではなく、英国アクセントでしゃべる司会者として40年代の後半は活躍していました。

原作はジョージ・S・カウフマンとモス・ハートの舞台脚本です。この戯曲家チームは『我が家の楽園(You Can't Take It with You, 1936)』『晩餐に来た男(The Man Who Came to Dinner, 1939)』などのコメディをブロードウェイで大ヒットさせました。『我が家の楽園』はピュリツァー賞も受賞しています。『我が家の楽園』はフランク・キャプラが1938年に、『晩餐に来た男』はウィリアム・キーリーが1942年に映画化しました。コーエン兄弟の『バートン・フィンク(Burton Fink, 1991)』の主人公、バートン・フィンクは、ジョージ・S・カウフマンの風貌にインスパイアされています。

ジョージ・S・カウフマン

バートン・フィンク(ジョン・タトゥーロ)

『マイホーム騒動記』、実は原作のブロードウェイ戯曲では、夫と妻の役割が逆なのです。戯曲では、夢見がちな夫が勝手に「ジョージ・ワシントンが泊まった家」を購入してしまうのです。ではなぜ役割を逆転させたのか。ジャック・ベニーがラジオで作り上げてきたペルソナを、映画に生かすためなのです。この映画化の段階での役割の逆転は、当時の映画界とラジオ界との関係を考える上で非常に示唆的です。当時のハリウッド映画界は非常に強大で影響力のあるものでしたが、一方では舞台、ラジオ、そしてその後はTVの持っている影響力を推進力として利用していた部分もあったのです。とはいえ、ラジオ番組のジャック・ベニーをそのまま持ってきたわけではない。これは、ジャック・ベニーのペルソナを生かしながらも、ハリウッドの解釈を加えながら練り出したキャラクターです。

『生きるべきか死ぬべきか』

例えば、『生きるべきか死ぬべきか』のジャック・ベニーの役柄は、ラジオのペルソナからは更に距離があるけれども、決して無関係ではない。このことは映画の脚本にもしっかり現れていて、ジャック・ベニーが演じるキャラクターについて、「なぜ言ったか」を常に意識するような、そしてその「なぜ」が全部キャラクター自身に跳ね返ってくるような、そういう仕掛けが常に用意されている。ジャック・ベニーはそういう意味で、非常に典型的なアメリカのエンターテイナーだと言えるでしょう。

ハティ・マクダニエル


『マイホーム騒動記』で家政婦へスターの役を演じるハティ・マクダニエルは『風と共に去りぬ(Gone With The Wind, 1939)』でも家政婦を演じていたのでご存知の方も多いでしょう。彼女は『風と共に去りぬ』で、黒人で初めてアカデミー賞(助演女優賞)を受賞しました。また、彼女は自分が主演のラジオ番組を持った初めての黒人でもあります。『ベウラ(Beulah)』は1947年から始まり、50年代にはTVに移行して続いた長寿番組です。もともとは30年代に白人が演じていた黒人家政婦のキャラクターを独立させて番組とし、マクダニエルが1952年まで主演しました。ところが、その黒人、特に黒人男性の描き方が非常に差別的であると批判を受けてしまいます。今となってはその後のTV番組も含めて、「政治的に正しくない」番組として忘れ去られています。

『ウチの亭主と夢の宿』

『マイホーム騒動記』に非常に良く似たハリウッド作品として『ウチの亭主と夢の宿(Mr. Blandings Builds His Dream House、1947)』という、ケーリー・グラント、マーナ・ロイ主演のコメディがあります。ニューヨークのアパートに住んでいた夫婦がコネチカットの田舎に独立戦争時代からあるボロ家を買ってしまう、という話です。ケーリー・グラントもマーナ・ロイも生粋のハリウッド俳優ですから、ハリウッド映画のロジックでキャラクターが組まれています。だから、明快で「映画的な」笑いが多くありますが、ジャック・ベニーのぐるっと回って自分に飛んでくる皮肉のような後味はありません。見比べてみるのも面白いでしょう。




2015年7月2日木曜日

動くカメラ (8)

『戦艦くろがね号』で使用された船上撮影用リグ
『戦艦くろがね号(Old Ironsides, 1926)』は、19世紀の地中海で海賊船と戦う帆船を舞台とした歴史活劇です。この映画のアクションシーン撮影の大部分は実際の船の上で行われました。撮影監督のアルフレッド・ギルクスは、ここで特別な装置を開発します。油圧で調整されたリグで、この上に三脚で固定されたカメラを設置しています。

ギルクスは、船の甲板の上に普通に三脚を立ててカメラを置くと、船の揺れが表現できないと考えました。

『戦艦くろがね号』の大部分は航行中の船上で、しかも実際の嵐のなかで撮影されるため、船の実際の揺れを自然にスクリーン上で表現することが望まれていた。
デッキ上に三脚を「打ち付け」たり、そうでなくても船に固定したりしてしまうと、これは不可能だ。そのようなセットアップでは、カメラは船の一部となってしまう。カメラの動きは船の動きと同期してしまう[1]。

それまでも揺れている船で撮影するためのカメラ用アタッチメントはあったようですが、これはバネでカメラを支持するタイプのもので、慣性がつきすぎてしまうという問題がありました。そこで、甲板の外にぶら下げるリグを作り、その吊りを油圧で調節していたのです。こうすれば、リグは船とは独立しますが、慣性による過度な揺れも油圧の調整によって抑えることができます。

この映画では、パンクロマチック・フィルムが使用されています。1920年代前半まで使用されていたオルトクロマチック・フィルムでは、空は白く映ってしまうため、空と海の境の水平線がはっきりしないのですが、パンクロマチックではそれがはっきりと出るようになります。つまり、『戦艦くろがね号』では水平線が船の背景に映し出されるのです。ギルクスは、固定された前景(甲板上)に対して、水平線が乱暴に動くだけでは「船の揺れ」を表現できないだろう、と考えて、油圧リグを考案したのでした。

『つばさ(Wings, 1927)』でも、パンクロマチック・フィルムが使われています。

まず、空中戦のシーン -パンクロマチック・フィルムの使用とマグナ・スコープ(注:大型スクリーン)の使用でスリルが増しているー は、カメラ好きにはたまらない映像クオリティだ [2]。

パンクロマチック・フィルムのおかげで、スピード感のある空中戦が立体的になっています。『つばさ』では、飛行機上に固定されたカメラからの映像がありますが、これだと『戦艦くろがね号』で回避したこと -カメラの動きと飛行機の動きが同期してしまうー が起きていしまいます。けれども、むしろ雲がはっきり映っていることで、背景の動きが強調されて空中戦の臨場感が伝わってきます。やはり遠景で撮影した空中戦、雲の合間を縫って飛び交う飛行機の映像が、もっともエキサイティングでしょうか。

 

[1] ""Sea-Going" Cameras for "Old Ironsides"", American Cinematographer, 6, p.7 (1926)
[2] "Wings", Amateaur Movie Makers, p.306, May (1928)


2015年6月23日火曜日

映写技師の問題



以下は「映写技師の問題」と題された1926年の論文からの抜粋(翻訳:筆者)です。著者はルイス・M・タウンゼント、イーストマン劇場の映写部長です。当時、イーストマン劇場と言えば、アメリカ国内でもトップと呼ばれたクオリティの高い映画館でした。その映画館の映写技師のグループを束ねていた人物による、その当時の問題意識です。

今の私の最大の問題は、1000フィートの週替りプログラム、2000フィートのコメディ、8000フィートの長編映画を2時間のプログラムに詰め込まないといけないと言うことだ。この2時間には、この他に8分か10分の序曲の演奏と、5分か10分くらい別のショーがある。これを映写速度を上げずにやらないといけない。イーストマン劇場では、これだけのプログラムを組まないと十分に楽しいものにならないと考えている。では、どうするか?標準スピードの1分当たり80フィート(約21fps)ではなく、1分当たり90から100フィート(24fpsから約27fps)で映写する。全部で120分しかない。しかも10分は演奏、10分はショーにとられ、映画には100分しかない。これだと9000フィートしか見せられない。そこで、コメディを1200フィートくらいにまで減らし、長編映画からは1000フィート分を減らす。これらはおおよその目安だが、プログラム全体では9000フィートを超えるわけにはいかないのだ。これをどうするかと言えば、--切るのである。これは易しい仕事ではない。私たちはこうしている。まず、支配人、音楽監督、そして私で最初に試写をする。その後、何を削れるか議論をする。この段階で、私は長さにしてどれくらい削れるか見当をつける。そして映写スピードと長さが決められる。そこでこの情報を記したメモを作って保存しておく。上映の段階になってプリントを受け取ると、もう一度上映して必要な編集(カット)をする。これは大体6時間から7時間かかる。製作者や配給(film exchange)は映画を切られるのを嫌がる。だが、彼らが長編映画を7000フィート以上で出してきたり、1000フィートにしたほうが面白いコメディを2000フィートで出してきたりする以上、こちらは切り続ける。もちろん、私たちは、映画のある部分をごっそり1000フィートも2000フィートも切ってしまうわけではない。リールごとに見ていって、ストーリーに直接関係無いような事柄や不必要なディテールや尺あわせをカットするのだが、これが結構たくさんあるのだ。

この論文の後に、映画技術者協会のトップたちとタウンゼント氏による議論があります。これはほぼ全部掲載します。

議論

ヒル氏(陸軍)・・・イーストマン劇場が、他でよくやられているように映写速度を極端に速くするようなことをせず、編集をして短くするという大変な思いをしているのだと聞いて嬉しく思う。2時間の映画を無理やり速くして1時間半で見せるような映画館は、観客をだましていると思う。13オンスのバターを1ポンドだと言って売っている八百屋のようなものだ。

クック会長:私は、13オンスを1ポンドだと言って売っている八百屋だとは思わない。客は1ポンド受け取っているが、消化できるよりも速く喉に押し込まれているんだと思う。

パーマー氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』):タウンゼントさんにそのカットについて聞きたいのだが・・・、自分たちでやる代わりに配給にカットしてほしいと頼んだことはないんですか?業界で製作側にいる人間としては、映写技師や映写部長なんかよりも配給のほうがそういうことはまともにできる気がするんだが・・・

タウンゼント氏:私たちは一度配給にカットを頼んだことがあります。あまりに酷かったのでそれ以降はもう頼まないことにしました。配給はただ映画の一部分を500フィートまるごとカットして、ストーリーが一部分なくなってしまったんです。見た人はみんな気づきました。我々は判断しながらカットします。ある映画から500フィート分をカットしたいのなら、私は非常に気を使いながら、リールごとに少しずつ切り出します。私は試写の時に一度見て、その後もう一度リールごとに見ます。記憶に頼って、長編映画を作業したりしません。ストーリーを一部分まるごとカットしたり、ストーリーにとって重要な出来事をカットしたりしないようにしています。脇の演技とか明らかに尺を埋めようとしたところとかを削除するんです

デニソン氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』映写担当):私は劇場側で映画をカットする権利などないと思う。映画はスタジオで適切に編集され、完璧な形なのだ。映写技師に映画を再度カットする資格などない。配給でさえ、検閲にかかったところをカットする以外には何もしない。劇場で映画をカットしないように過去にも何度も言ってきた。もし映画が長すぎたり、尺あわせをしているようだったら、製作側に話をもってくるべきだ。劇場で訳も判らない切り方をされては、映画のストーリーの価値がなくなってしまう。

リチャードソン氏(映画雑誌『モーション・ピクチャー・ワールド』編集):私は、切らないでそのままのほうがいい映画など見たことがない。尺あわせみたいなことをするせいで、時事ものや長編やコメディを限られた時間で上映しないといけない多くの劇場が困っている。上映時間は支配人が詰め込みたいプログラムにはとても入りきらない。私は言い続けてきたし、またここでも言うが、有能な映写技師の最も重要な仕事の一つが、映画をみて、もうどの映画にもくっついている要らない部分を切り落として、映写スピード上げずに時間内に上映することだと思っている。



出典 Lewis M. Townsend, "Problems of a Projectnist", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 10, p.7 (1926)

2015年6月20日土曜日

動くカメラ (7)


カメラを動かすこと自体は映画の黎明期から行われていたのですが、ハリウッドでそれがより自由度を増すのは1920年代の後半になってからです。その最大の理由が「モーター」でした。今まで紹介してきた様々な動くカメラのシーンの撮影においても、大部分がモーターでカメラの駆動しています。

まず前提として、サイレント期においては、カメラは手でクランクして撮影をしていたということ、そして映写も映写技師が手でクランクして映写していた、ということを確認しておかなければいけません。これは手でクランクするのですから、常に速度が一定とは限らない、ということです。ということは、撮影時の物理的な(絶対的な)時間の進み具合に対して、撮影されたフィルムに写っているものは、カメラマンのクランクの具合によって伸び縮みするものだ、ということです。さらに、その写ったネガから起こされたプリントの映写では、映写技師のクランクの具合によって、また伸び縮みする、ということです。よく「サイレント映画の映写スピードは16fps(フレーム/秒)」という記述を見かけますが、これは決して絶対的な規範として当時の業界に流通していたわけではありません。むしろ、この伸び縮みを自由に利用して、例えば、アクションシーンでアンダークランクで(遅く回して)撮影する、ということは日常的に行われていました。映写時にそれを普通にクランクすれば、他のシーンに比べてアクションが加速されて映し出される、という仕組みです。1923年のTSMPE誌に掲載された「撮影時と映写時のスピードを同期させる重要性 [1]」という論文は当時のそういった慣習に対して疑問を投げかけたものですが、その論文に付記された「議論」でのM・W・パーマー(映画製作会社『フェーマス・プレイヤーズ・ラスキー』所属)の反論がすさまじいのです。

私はリチャードソン氏のこの問題に対する姿勢に同意しない。スクリーンで映し出されるものは、カメラの前で起きたことを複製しなくてもよい、と私は考えている。これは芸術的な上映であり、必ずしも機械的に正確である必要などない。撮影時のスピードについて言えば、監督が気にしていることは、そこで伝えようとしている思いに対して、動きが添っていればよいのだ。例えば、リチャードソン氏が挙げた死の床のシーンを考えてみよう。ここで監督は、映画館ではどうせ速いスピードでクランクされるであろうと予想して、カメラマンに速いスピードでクランクさせて撮影するだろう。そうすれば、上映時にはそのシーンだけは前のシーンに比べて遅く写るだろうし、それだけが監督の気にしていることだ。

一方で、リチャードソン氏はその論文の中で「カメラマンは自分のクランクの速度が一定であることを強硬に主張する」とも述べています。ややこしいですが、現実には撮影時のクランク速度はシーンに合わせて変化していたけれども、建前としては一定速度だったと主張していた、ということのように見えます(注)。


ベル&ハウエルのモーター駆動カメラ
左側の下に向かってコードが出ているのがモーター
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1923年
 
そのような背景のなかで、カメラにモーターが搭載されたという経緯があるのです。

ハーバート・C・マッケイの『映画撮影ハンドブック(1927) [2]』には、手でクランクするカメラはプロフェッショナル用だが、「三脚で固定できること」が必須条件だと述べています。この状態でカメラを動かすためには三脚とカメラマンごとドリーや自動車に乗って動く必要があります。そして、それが長い間、カメラの動きを制約していました。

『つばさ』撮影時、ベル&ハウエルを飛行機に搭載
矢印はモーターを示している
ベル&ハウエルの広告から
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1927年

カール・ルイス・グレゴリーによる記事(1921年)[3]に、ベル&ハウエルの映画用カメラのモーターに関しての記載があります。110ボルトの電源で速度可変(4 fpsから24 fpsまで)、逆回しも可能のメカニズムでした。これらはケーブルでリモートコントロールが可能です。モーターによる駆動の理由の一つとして挙げられているのが、「危ない(hazardous)シーン」での撮影があります。ただし、この場合、110ボルトの電源ケーブルが届く範囲でしか動かすことができません。おのずとスタジオ内での撮影が主なものになり、これでは特に「危ないシーン」を撮影する機会はありません。カメラは電源ケーブルからも開放される必要があったのです。1923年の『アメリカン・シネマトグラファー』誌 [4]に、ゴールドウィン・ピクチャーズがカメラ会社と協力して「自動車上で安定した電源をカメラのモーターに供給できるシステムを考案した」とあります。さらに、コスモポリタン・ピクチャーズ製作の『Unseeing Eyes』の撮影では、飛行機にカメラマンなしでモーター駆動カメラが搭載され、飛行機に乗った俳優がその操作をした様子が記載されています。まさしく危ないシーンをカメラだけで自動駆動で撮影するようになったのです。

カメラをハンドクランクすること自体は撮影のメカニズムの一部だったわけですが、そのことを考えると、カメラをモーター駆動にしたのは人間のためではなくて、カメラのためだったのではないでしょうか。カメラを人間から解放して、人物を追跡させ、飛行機に載せ、人間が危なくて行けないところ、人間の目でファインダーを覗けないところへ送り込む。モーターのケーブルからも解放し、バッテリーで駆動するようにしていく。そうしないとカメラは動けなかったのです。

『サンライズ』撮影中の様子
一番右がF・W・ムルナウ、その左がカール・シュトラス
カメラにはモーターが搭載されているのが見える


[1] F. H. Richardson, "Importance of Synchronizing Taking and Camera Speeds", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 17, p.117 (1923)

[2] Herbert C. McCay, "Handbook of Motion Picture Photography", Falk Publishing Company, 1927

[3] Carl Louis Gregory, "Motion Picture Cameras", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 12, p.73 (1921)

[4] "Motor-Driven Cameras Given Practical Usage", American Cinematographer, 4, p.22 (1923)




追記注(2015.6.21)

(注)映写も1920年代に入ってからは多くがモーター駆動になっていきます。特に都市部の大型映画館は大部分がモーター駆動の映写機を使用するようになってきていました。

2015年6月17日水曜日

動くカメラ (6)

サイレント映画の長回しはなぜ短いのか

街の天使 Street Angel (1928) フランク・ボゼージ監督


ムルナウの『サンライズ(Sunrise, 1927)』が当時のハリウッドの関係者、特にフォックスにいた監督やカメラマンに与えた影響は非常に大きかったと言われています。特にフランク・ボゼージとジョン・フォードは、その影響が非常に如実に映像に表れています。



このショットの撮影の様子
カメラが原始的なクレーンに載せられている

これは『街の天使』のオープニングのショットです。人物と一緒にトラッキングしていたカメラが突然浮き上がり、広場の全景をパンしながらとらえていきます。すると階段に現れた男女にフレームが固定され、今度はそこへ寄っていき・・・と様々に用意された演出にカメラが焦点を合わせながら浮遊し続け、最後にストーリーの焦点となる家の前に集まる人々を映し出します。この1分弱の長回しが、ストーリーの導入部となっています。

ジョン・フォードの『四人の息子(Four Sons, 1928)』では、『サンライズ』のセットを多く使っているだけでなく、カメラの動きも強い影響下にあることがうかがえます。たとえば、『サンライズ』の夜の沼のシーンの対ともいえる、霧の戦場のシーン。ここではカメラはムルナウの時ほど複雑な動きはしませんが、それでも霧の戦場を彷徨うカメラは、都会の女に会いに行く男を追跡するカメラを髣髴とさせます。





先ほど「1分弱の長回し」と書きましたが、今の私たちの感覚からすると、1分程度ではとても長回しとは言わないだろうと思います。サイレント映画では、基本的にショットは短く収めてきていました。トーキーのように、役者たちの長セリフをカットなしで撮影する、というようなことがサイレントにはできないからです。しかし、カメラが動くようになり、その動きがより複雑に浮遊するようになると、ショット長は長くなっていきました。


ところが、3分を超える長回しは存在していません。なぜでしょうか。理由はカメラネガの現像にありました。

当時、カメラネガの現像はフィルムをラックに架けて現像液のタンクに入れる方法がとられていました。このラックに架けることのできるフィルムの最大長が200フィートで、16フレーム/秒(サイレント期の平均的な撮影スピード)で換算するとおよそ3分です。いくらカメラのマガジンを大きくしようが、結局現像で200フィートに切られてしまうので、最長でも3分の長回ししかできないのです [1]。

映画初期の現像の様子(1899)[3]

現像用ラック(1935)[3]

このタンク&ラック式の現像方法は多くの問題を抱えていました。フィルムが現像液につかって収縮したり延伸したりすることで、フィルムがラックから外れたり、ラックに接触している部分の現像がムラになったり(プリントを上映すると、ラックの長さで周期的にムラが出てきたりする)と、生産性が決して高い方法ではなかったのです。それでもこのタンク&ラック式が使用され続けたのは、機械によって大事なカメラ・ネガに傷がついてしまうことを恐れたのと、撮影時の露出不足や過露出を現像で救える、とされていたからでした。ユニバーサルの写真部主任、C・ロイ・ハンターはこう述べています [2]。

映画フィルムのカメラネガを機械で現像するというのはここ数年検討されてきているが、カメラネガは非常に高価なものであり、その扱いには極度の慎重さが要求されるため実用化が敬遠されてきた。

また、(撮影上の)問題があるネガでも現像工程で救済できる、あるいは少なくとも改善できると言う間違った考えのために、機械による現像が困難になっていた。

「カメラネガが高価である」というのは、その撮影のために多くの資金(セット、役者、監督 etc.)が費やされ、たった1度きりの機会を撮影したものなので、傷めてしまうと取り返しがつかない、と言う意味です。そういう観点では、映写用のプリントの現像はもう既に何年も前から機械化されていたのです。またハンター氏は「現像によって下手な撮影を救済する」という考え方を間違っていると一蹴しています。

ユニバーサルでは、映写プリント用の自動現像機のSpoor-Thompsonに、カメラネガを傷つけないように様々な改良を加えてテストを開始します。そして、『笑う男(The Man Who Laughs, 1928)』ではじめて連続式現像装置を導入しました。『笑う男』は6ヶ月にわたる撮影でしたが、その長い撮影期間にもかかわらず現像してみるとバラツキがみられませんでした。従来のタンク&ラック式では、季節による温度変化のため、現像の出来が冬と夏では違う、といったことが起きていましたが、その心配がなくなったのです。

ユニバーサルが導入したSpoor-Thompson現像機 [3]
現像機の処理能力は1時間当たり4000フィート以上で、どんな長さのネガでも切らずに現像できる。これはタンク&ラック式の現像法では望めない。シーンを切ることはシーンの連続性(コンティニュイティ)にとって非常に有害だ。最近の映画製作では、一つのショットでロングショット、セミロングショット、クローズアップを途中止めることなく一続きで見せるようなアプローチショットが多い。機械式現像機のこの特徴は、最近の映画製作にとって、非常に大きな力になるに違いない。

ハンター氏は述べていないのですが、この後、トーキーの到来と共に、この機械は光学式のサウンドトラックの現像においては非常に重要な役割を担うことになります。サウンドトラックは、常に同じ条件で現像される必要があるからです。

[1] An Evening's Entertainment: The Age of the Silent Feature Picture, 1915-1928, R. Koszarski, University of California Press, 1994, p.174
[2] "A Negative Developing Machine", C. Roy Hunter, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers; April 1928; 12:(33) 195-204
[3] A Technological History of Motion Pictures and Television, R. Fielding, University of California Press, 1967

2015年6月15日月曜日

動くカメラ (5)

本当にカメラは解き放たれたのか

 

サンライズ Sunrise (1927) F・W・ムルナウ監督

"Fluid Camera"


F・ W・ムルナウはドイツで『最後の人(Der Letze Mann, 1924)』を監督しました。この作品で、カール・フロイント(撮影)とともに非常に独創的なカメラ・ムーブメントに挑戦し、それは "die entfesselt Kamera(飛ぶカメラ)"と呼ばれていました。

ウィリアム・フォックスがドイツからムルナウを招聘し、白紙委任で監督させた作品が『サンライズ(Sunrise, 1927)』です。強調遠近法を利用したオープンセット、ディープ・フォーカスを使用した構図、少ない光源をうまく利用した夜のシーンなど、当時のハリ ウッド映画の常識を大きく覆した演出を盛り込んだ作品です。そのなかでも、湖からゆっくりと街に走る「路面電車の移動」と、この「夜の沼での密会」は、その後のハリウッドの映像文法を考える上でも重要なシーンです。



この沼でのシーンのようなカメラの動きを、ムルナウは好んで「解き放たれたカメラ(Unchained Camera)」と呼びました。これは、例えば『つばさ』のトラッキング・ショットのような直線的な動き、あるいは飛行機に固定されたカメラのように、運動する物体からみた景色の動き、さらには手持ちカメラといった、動くものにくくりつけられた(Chained)カメラの映像とは一線を画しています。カメラは自由に浮遊し、人物を追跡するだけでなく、柵を超え、葦の茂みを分け入って進み、カメラ自体に意思があるようにさえ感じられるのです。様々な動きの多重化、多層化を見事に捕捉して、「カメラが動く」ということ -フレームが動き、動くものがフレームに収められるということー をトラッキングや手持ちといった制約から解き放ったように見えます。

この「夜の沼」のシーンの撮影の様子は、スチル写真などで見たことがありません。ジョン・ベイリー(撮影監督。『恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day, 1994)』『キャット・ピープル(Cat People, 1982)』)によれば、カール・シュトラスが天井から吊るされたドリーに乗って、モーターで動くベル・ハウエルで撮影したようです。よく観察すると、ドリーはほぼ直線上を動いています(追記注)。にも関わらず、カメラがその直線から解き放たれたように見えるのは、ドリー上でカメラが左右にパンしつつ、カメラの向いている方向がドリーの進行方向と一致していないこと、ドリーの移動速度が変化すること、そして(おそらく)最初に出てくる月と最後に出てくる月は別のプロップ(道具)なので、観ている者の空間把握を狂わせるからだと思われます。

このショットのNGテイクのプリントも残っているのですが、そこでは、動きが突然速くなって、ドリーが上下に揺れてしまっているのが、画面の揺れとなって現れています。実は人物の動きとの同期がずれてしまって、ドリーが速く動かされたのです。そこから考えると、このカメラの動きは実は「解き放たれ」てはおらず、別のものにくくりつけられたのではないでしょうか。今度は何にくくりつけられたのか。それは「動きの同期」です。人物の動きの軌跡とカメラの軌跡はあらかじめ決められていて、その同期が図られることで初めてフレームの中に求められていた動きが現れる。そして、動かすメカニズムがばれてはいけない。ドリーの振動や移動速度の急激な変化など、カメラが設置されているメカニズムの特性がフレームに現出してはいけないのです。

この「動きの同期」と「メカニズムの透明化」が重要なのは、その後のクレーンの登場や長回しの演出という、ハリウッド映画において重要な位置を占める技法の基盤になるからです。

(追記注)  2015.6.20
カール・シュトラスは、これは天井からつるされた「パーアンビュレーター(乳母車、この場合はドリーのようなもの)」で逆S字の動きをした、と発言しています。(TSMPE, 12, p.318 (1928))

2015年6月14日日曜日

動くカメラ (4)

帝国ホテル Hotel Imperial (1927) モーリッツ・スティルレル監督

手持ちカメラ


これは「帝国ホテル」ではなく、「明眸罪あり(The Temptress, 1926)」の撮影現場
左はモーリッツ・スティルレル監督
右でタンゴを踊っているのがグレタ・ガルボとアントニオ・モレノ
カメラ(手持ちカメラのEyemo)を構えているのがトニー・ガウディオ
モーリッツ・スティルレルはこの映画の撮影に入って10日ほどで降ろされ、
代わりにフレッド・ニブロが監督をつとめる

「帝国ホテル」のダンスのショットも手持ちカメラ(Eyemo)で撮影されたものでしょう。Eyemoとは1925年から市場に導入されたベル&ハウエル社の手持ち35mmカメラ(Hand-held Camera)。1970年代まで使用されていました。ニュース用、あるいはドキュメンタリー用として主に活躍していましたが、このように劇映画でも多く使用されています。無声映画の当時は、撮影は手のクランクしていましたが、Eyemoはゼンマイ駆動なので、握っているだけで撮影できました。このおかげで機動性が格段によくなりました。

American Cinematographer誌に掲載されたEyemoの広告(1927)
Eyemoを握っているのはセシル・B・デミル
「キング・オブ・キングス(The King of Kings, 1927)」で使用

他にも、1920年代後半に手持ちカメラが市場に登場しています。1910年代からニュース映画用として使用されていたAkeleyよりも、より機動性のあるDeVry、Cine-Kodakなどが盛んに広告を出しています。

DeVryカメラの使い方の例
特別なクランプで様々な場所に固定できる

これを思い出しました
ニード・フォー・スピード(Need for Speed, 2014)の撮影現場
GoPro3を設置しています
(via. hurlburvisuals.com)
これはシドニー・フランクリン監督が「クオリティ街(Quality Street, 1927)」撮影中に、ローラースケートを履いてEyemoで撮影している様子です。

 
 このような撮影手法もサイレント後期の1926年以降にはかなり頻繁に現れるようになります。

2015年6月11日木曜日

動くカメラ (3)

クオリティ街 Quality Street (1927) シドニー・フランクリン監督

ダンスのショット


上のシーンの撮影の様子
右手に吊り下げられたカメラ
照明も一緒に回転するようになっている


群集 The Crowd (1928) キング・ヴィダー監督

滑り台のショット




撮影はベル・ハウエルにモーターを搭載している
撮影はヘンリー・シャープ(のちに『我輩はカモである (1933)』や『恐怖省 (1944)』を担当)

2015年6月10日水曜日

動くカメラ (2)

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

ブランコのショット



撮影の様子
カメラの三脚にもたれているのが
ウィリアム・ウェルマン監督


飛行機からの攻撃




カメラ設置の様子
モーターで動かすための配線が見える


2015年6月9日火曜日

動くカメラ (1)

先日のUNKNOWN HOLLYWOOD第6回のトーク内で「動くカメラ」についてお話をしましたが、そのいくつかについて、実際の撮影の様子を紹介します。

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

トラッキングショット





このトラッキングショットの撮影の様子
天井から吊るされたドリーに乗っているのは
監督のウィリアム・ウェルマン
カメラがドリーの前方に固定されている
照明の設置に注目


『第七天国』 Seventh Heaven (1927) フランク・ボゼージ監督

トラッキング+エレベーターショット



撮影の様子
2階でポケットに右手を入れて上を見上げているのが
フランク・ボセージ監督



2015年4月19日日曜日

まだ起きていない犯罪

「スナイパー(1952)」
  「スナイパー(1952)」の主人公エディーについては、直接モデルとなった連続殺人犯はいないようだ。しかし、この映画が製作されるときに、製作や監督の意識にあったであろう殺人事件があった。ハワード・ウンルー(Howard Unruh, 1921 - 2009)が1949年に起こした大量殺人事件である。ニュー・ジャージー州のカムデンという小さな町で、ある朝、彼は町の通りを歩きながら、わずか12分のうちに13人を射殺した。町の人たちをターゲットとしてはいたが、計画的ではなく、ほぼランダムに、手当たり次第にドイツ製ルガーで撃っていった。彼はすぐに逮捕された。

  ウンルーは、結局精神異常と診断される。彼が最後に残した言葉は「弾さえあれば千人だって殺した」だった。

逮捕されたハワード・ウンルー(中央)
警官たちの表情と犯罪者の表情の対比
  このウンルーは、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線に従軍したが、非常に腕の立つスナイパーだったらしい。しかし、すでに彼の異常性はこの時から明らかだった。

彼の日記は、奇怪としか言いようがないー戦争中に射殺したドイツ兵について一人一人、いつ、どこで、どのような状況で撃ったか、そしてその兵士の死んでいくときの顔の表情を、克明に記録しているのだ。
-Bad Blood, An Illustrated Guide to Psycho Cinema, Christian Fuchs, 1996

  この「死んでいくときの顔を表情を記録している」というのが、実に衝撃的だ。撃ったときのリコイルの問題も考えると、どこまで本当にウンルーがスコープを通して見たことなのか、彼の幻想も混じってはいないだろうか、と思ってしまう。
 
  現在のスナイパーのトレーニングでは、しとめる相手の頭部はなるべく狙わず、身体の重心位置、すなわち胸部を狙うらしい。ターゲットとして広くて狙いやすいから、ということのほかに、撃つ相手の表情を見るとスナイパーといえども一瞬ひるむことがあるからだそうである。ウンルーはひるむこともなく、じっと観察していたことになるのだろうか。



  「スナイパー」では、精神科医のケント(リチャード・カイリー)が自説を披露するシーンがある。エディーのような無差別殺人を起こす犯人は、過去にすでに暴力行為で警察の世話になっているはずだ、最初は殴ったりするような小さな犯罪だったのが、だんだんエスカレートして、最後には歯止めが効かなくなる。その最初の、小さな犯罪の時点で見つけ出して精神病院に収容すべきだ、というものである。この「予防措置」的な考えは、21世紀になってまさに起きていることである。ガンタナモ収容所は、「テロを起こすかもしれない」可能性のある人物を強制的に収容している。その人権を無視した扱いも含めてUNやアメリカ国内のリベラルのみならず、右派からさえも批判のある一方で、「あのおかげでテロが未然に防げているのだ」という意見もある。

  P.K.ディックの小説「少数報告(The Minority Report)」とその映画化作品も、犯罪を起こす人間を未然に逮捕するという設定だが、実際に起こした犯罪ではなく、「これから起こすかもしれない犯罪」に対してアクションがとられるという点において、ケント医師の発言はディックの描いた居心地の悪い未来への入り口とも言えよう。

2015年3月25日水曜日

「スナイパー」-フィルム・ノワールから新しい時代への入り口

「スナイパー(1952)」UNKNOWN HOLLYWOODオリジナル予告編

  次回の「知られざるハリウッド映画」で上映予定のエドワード・ドミトリク監督「スナイパー(The Sniper, 1952)」は、サンフランシスコを舞台としたフィルム・ノワールの佳作だ。この作品は、調査した限り日本で公開された形跡がみられず、現在でも日本国内でDVD等で見ることができない作品である。

  舞台は第二次世界大戦後のサンフランシスコ。ブルネット(黒髪)の女性を狙った無差別殺人が次々と起こる。犯人はビルの屋上や物陰からスコープ搭載のライフルで狙い撃ちをしているのだ。サンフランシスコ市警は、次々と起こる殺人を前に市民の批判を浴びはじめる・・・。

  エドワード・ドミトリク(1908 - 1999)は「ケイン号の叛乱(The Caine Mutiny, 1954)」、「山(The Mountain, 1956)」といった大作も有名だが、私としては「ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)」や「影を追う男(Cornered, 1945)」などのスタイリッシュなフィルム・ノワールの作品が特に印象深い。「ブロンドの殺人者」はそれまでロマンチック・コメディーやミュージカルの甘い役が多かったディック・パウエルを、ハードボイルドのシンボル、フィリップ・マーロウに仕立て上げるという離れ業をやってのけた演出力が見事だ。「十字砲火(Crossfire, 1947)」は、人種差別問題を扱った、当時としてはセンセーショナルなスリラーとして歴史的にも重要な作品である。ロバート・ライアン演ずるモントゴメリーの正体が少しずつ暴かれていく様子は血も凍る。


  一見順調に見えたドミトリクのキャリアだったが、1940年代後半の赤狩りのさなか、共産党に一時期在籍していたことが非アメリカ的活動を行っていたと糾弾され、「ハリウッド・テン」の一人として投獄されてしまう。1951年4月に「転向」を表明、HUACの公聴会で、他の共産党メンバーの名前を挙げた。転向後、ハリウッド映画界に復帰して最初に監督した作品が「スナイパー」である。「スナイパー」で警部役として登場するアドルフ・マンジュー(1890 - 1963)は赤狩りで最も強硬だった右派の俳優。率先して公聴会で証言し「共産党員は全員ソ連に行け」と言い放ったりとしたのだが、その彼が「元共産党員」のドミトリクの作品に登場しているのもなかなか味わい深い。撮影中は特に大きな衝突もなかったようだ。

  「スナイパー」はその大部分がサンフランシスコでロケーション撮影されている。しかし、1940年代に20世紀フォックスで製作されたセミ・ドキュメンタリー風の「ブーメラン(Boomerang!, 1947)」「出獄(Call Northside 777, 1948)」あるいは「裸の町(The Naked City, 1948)」とも異なる風景の切り取り方をしているように感じる。撮影監督はバーネット・ガフィー(1905 - 1983)。「地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)」「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)」で二度アカデミー賞を受賞しているハリウッドを代表する撮影監督だ。ガフィーの白黒映画における独特のアプローチ -弱いコントラスト、全体にグレーを基調とした画面ー は有名で、この作品でもその美学が遺憾なく発揮されている。フィルム・ノワールというと、ジョン・オルトンやジーン・ネグレスコに代表される陰影の強い照明(キアロスクーロ)とディープ・フォーカスを要素とした映像を思い浮かべがちだが、ガフィーの映像はその対極にある。砂を噛んだような(gritty)灰色に荒された世界。ファム・ファタルの妖艶な輝きや裏切りのナイフのような鋭い影 -まさしくハリウッドによってグラマライズされた世界ー とは無縁の、普通の人間が孤独に日々を過ごす灰色の都会を写し取るこのような映像こそ、その後のハリウッド映画に別次元のリアリズムを与えることになった。「スナイパー」を見ていただければ分かるが、装飾が失われて大衆化していく都会の風景が容赦なく切り取られている。そのスタイルは、1952年と言うよりは60年代を髣髴させる。


  サンフランシスコは坂の多い土地だ。この土地が持つ高低差に加え、連続殺人犯が獲物を狙う高低差、ビルの屋上からの眺望、観覧車の高さ、といった「高/低」に支配された構図が随所に現れてくる。不思議なことに高さからくる開放感よりも、高いものに阻まれたクローストロフォビック(閉所恐怖症)な強迫や、地に足が着いていない不安定な浮遊感を感じてしまう。背景に高い建造物のシルエットを配置する広めの奥行きのある構図とともに、視野をぐっと絞ったタイトな構図もある。広角と長めのレンズを縦横無尽に使いながらサンフランシスコの町が実に多彩な角度から切り取られていく。同じくサンフランシスコを舞台とした「ブリット(Bullitt, 1968)」や「めまい(Vertigo, 1958)」と比較しても面白いだろう。


  主人公を演じるアーサー・フランツ(1920 - 2006)は、特にTVドラマの手堅い性格俳優として重宝された。「ペリー・メイスン」「ローハイド」などに出演している。メアリー・ウィンザー(1919 - 2000)は大きな眠そうな瞳と175cmという大柄な体躯が印象的な女優。フィルム・ノワールにも多く出演している。注目したいのはジェラルド・モー(1914 - 1968)、この作品ではアドルフ・マンジューの部下で少し皮肉屋の刑事を演じている。彼は1930年代から50年代にかけて、実に500以上のラジオ番組に出演しており、多くのリスナーにとって、彼こそフィリップ・マーロウ、ネロ・ウルフ、ホイッスラーといったハードボイルドの「声」だった。「スナイパー」では、その風貌も手伝ってか「ハンフリー・ボガートの真似をしている」といわれることもあるが、どうだろう。彼もその後TVドラマで活躍するが54歳の若さで亡くなってしまう。


アーサー・フランツ
メアリー・ウィンザー

アドルフ・マンジュー
ジェラルド・モー


ジェラルド・モー主演の「フィリップ・マーロウの冒険」ラジオ番組  

  「スナイパー」の中でTVが話題になったり、プロットのカギとなったりするシーンがいくつかある。今回字幕を制作するうえで、当時のTV放送の状況を知る必要があって調査したのだが、1952年当時すでにアメリカではTVが大衆文化の一端として浸透しつつあった。なかでもスポーツの放送は非常に人気が高かったが、それは当時のTV放送においては録画放送のハードルが高かったことも一因だ。とはいえ、放送用のビデオテープシステムの開発が進み、テレビドラマが人気を博するようになるまであと数年。この映画は、TVそのもの、そしてTVが象徴するような、都会に生きる人間の新しい孤独の風景を切り取って見せている。この四半世紀後、トラヴィス・ビックルがTVをけり倒す、その入り口が見えている。

第5回「映画がアメリカンサイコを作った」
2015.4.5. Sun. 17:00開場 17:30開演
原宿 千駄ヶ谷 映画24区スタジオ(Webサイト
短編映画併映
オリジナル日本語字幕付

上映後「映画がアメリカンサイコを作った」トーク
MC:角田亮、Murderous Ink

2015年3月18日水曜日

アレキサンダー・ハミッドの「あてなき彷徨」

  マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

 

  プラハの街。路面電車。男。そして路面電車は男を郊外へ連れて行く。わずか8分程度の作品だが、手持ちカメラの映像と鋭い編集が澱むことの無い流れを作っている。当時のフランス、ドイツ、ソ連の映像芸術からの影響も勿論見えるが、構図やシルエットの撮り方は非常に新鮮だ。

  アレキサンダー・ハミッドはIMDBによれば本名アレキサンドル・ジーグフリード・ゲオルグ・シュマエル(Alexander Siegfried Georg Smahel)、オーストリア・ハンガリー帝国のリンツに1907年に生まれた。1930年代にチェコスロバキアの前衛映像運動の旗手として注目され、「あてなき彷徨」のほかにも「プラハの城(Na Prazském hrade, 1931)」を監督・撮影している。これはぜひとも見たい作品の一つだ。この頃はアレキサンドル・ハッケンシュミードという名で活動している。この作品の製作はラディスラフ・コルダ。戦前のチェコ映画界における重要な役割を果たした人で、ヘルミーナ・ティールロヴァーなどの作家を支持し、チェコ人形アニメの基礎を築いたと言われている。

プラハの城(1931)

  靴のブランドで有名なバタ(Bata)の経営者、ヤン・アントニン・バタが、1930年代に映画撮影所バタ・フィルム・スタジオを設立する。そのスタジオは若い映像作家達を呼んで様々な作品を製作させたが、ハミッドはその中心的人物だった。そのスタジオの作品はコマーシャルも多く、その作品のひとつにアレキサンダー・ハミッドと若きエルマール・クロスが監督したタイヤのコマーシャル「ハイウェイは歌う(Silnice zpivá, 1937)」がある。

ハイウェイは歌う(1937)
  さらにナチスのズデーテン地方の分割から存亡の危機に陥ったチェコスロバキア政府が製作した「危機(Krize, 1939)」の共同監督もつとめた。この後、ナチスのチェコ併合とともにハミッドはアメリカへ亡命、マヤ・デレンと出会うのだ。

  実は、UNKNOWN HOLLYWOODの第3回「封印されたプロパガンダ」のトークの際に使用した資料映像のひとつ、「国家の賛歌(Hymn of Nations, 1944)」はアレキサンダー・ハミッドが監督だった。すっかり見落としていた。


  彼はその後もドキュメンタリーの分野で活躍し続ける。1960年代に「トゥ・ビー・アライブ!(To Be Alive!, 1964)」という同時に3画面に映写する作品を監督、さらに1976年にIMAXフォーマットのドキュメンタリー「トゥ・フライ!(To Fly!, 1976)」の編集も担当している。

  しかし、この映画作家達の有機的なつながりはなんだろう。IMAXからチェコアニメまで。その中心にアレキサンダー・ハミッドはいる。

"Alexander Hammid", MUBI
"Modernity and Tradition; Film in Interwar Central Europe", A film program offered in association with the exhibition Foto: Modernity in Central Europe, 1918 - 1945, at the National Gallery of Art, Washington, 2007
"Ladislav Kolda", fbz.cz
"The Birth of IMAX", Diane Disse

2015年3月14日土曜日

列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。


この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。


厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。


特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。

ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。


【参考】
"Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand"、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号 


2015年3月12日木曜日

オスカー・フィッシンガーの徒歩の旅

UNKNOWN HOLLYWOODの第1回に来ていただいた方は、この短篇フィルムを覚えていらっしゃるだろう。


これは、ラッキー・ストライクのコマーシャル(1948)だ。実は、これはオスカー・フィッシンガー(Oskar Fischinger, 1900 - 1967)が戦前1930年代にドイツで製作したタバコのコマーシャルの真似だということを知った。ムラッティというブランドのタバコのコマーシャルが1934年と1935年に製作されている。これは実は以前日本でレーザーディスクで発売されていたようだ。

オスカー・フィッシンガーは抽象映像芸術の先駆者であり、その後のヴィジュアル・アーツに大きな影響を与えたと言われている。1920年代から、ヴァルター・ルットマンと交流があり、お互いを刺激する関係にあった。フィッシンガーの仕事で有名なのはフリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」の特殊効果である。月面や宇宙空間、そしてロケットなどのヴィジュアルを提供した。その頃、彼自身はスタディーズと呼ばれる、紙に炭で描いたアニメーションを製作している。これらは音楽と同期させて鑑賞することを目的としており、映像史上初のMTVとも言えるかもしれない。



フィッシンガーが1920年代に発明した装置に「ワックス・スライシング・マシーン」がある。これはワックスで作成されたオブジェをスライスしてその断面を1フレームずつ撮影していくものである。これで製作された作品が「ワックス・エクスペリメンツ(Wax Experiments)」と呼ばれている。


彼の作品をもっと知りたいと思うが、なかなか見る機会はなさそうだ。特に彼の作品を管理している、フィッシンガー・トラストが多くの作品を再リリースしていない現状では致し方ない(特に彼が製作したコマーシャルなどは、フィッシンガー自身の遺志によるところも大きいようだ)。そんななかで現在全編見ることが出来て、なおかつ非常に興味深いのが「ミュンヘンからベルリンまで徒歩の旅(Munchen-Berlin Wanderung, 1927)」である。家賃が払えなくなってベルリンに逃避行したときの徒歩の旅程で得られた映像を映画にしたものである。これは見る機会があればぜひ見てみたい。



この抜粋を見て思い出したのが、2002年ごろから数年間、マイクロソフトが研究開発していた「マイライフビッツ(MyLifeBits)」で導入されたセンスカム(SenseCam)である。 マイライフビッツは、自分の人生をすべて記録して保存するシステムを提供しようというプロジェクトで、ゴードン・ベルが自身でそれを実践していたのだが、そのときに首からぶら下げてタイムラプス映像を取り続けるカメラがセンスカムである。これがその例である。


最近は自撮り棒で自分のビデオを撮るのが流行っているが、以前は外界を撮ることに熱中していた時期があった。このセンスカムとそのアイディアは、実はアルツハイマー病や記憶喪失などの記憶障害の患者のために利用されている。その日一日の行動を記録したものを後で見直すことで、記憶の復帰を刺激することができるとされている。

「ミュンヘンからベルリンまで」を記録した、そのときの記憶の持ち主はもういないのだが、その映像は私達に別の経験を与えてくれる。それはどういうことなのだろうか。私は「他人が撮った映像」「自分が撮った映像」を見るという行為のはじまりについて、もう一度最初から考え直さないといけないようだ。

2015年3月11日水曜日

ハンス・カスパリウスの「ヒデンゼー(1932)」

英国の映画雑誌「Close-Up」の1932年9月号に掲載されていたスチール写真に眼を惹かれた。



ドキュメンタリー映画「ヒデンゼー(Hiddensee, 1932)」からのもの。監督はハンス・カスパリウス(Hans Casparius)。ヒデンゼーはバルト海の孤島だ。そこを舞台としたドキュメンタリーだと思われる。思われる、というのも、この映画についての情報がほとんど見つかっていないからだ。



ハンス・カスパリウスの映画界における活動は、G.W.パブストの「三文オペラ(1931)」などにスチール写真家として参加していること、戦後「サイモン(Simon, 1954)」という短編映画をイギリスで製作したことくらいがIMDBに掲載されている程度である。この「ヒデンゼー」というドキュメンタリー映画についてはリストされていない。



カスパリウスは、写真家として1920年代からナチス台頭前のベルリン、そしてその後ロンドンで活躍しているようである。ジグスモンド・フロイトの肖像写真のひとつも彼のクレジットになっている。

彼のベルリン時代の写真は、街の何気ない風景をスナップした作品だ。対象を瞬時にとらえたようなものが多い。けれども、陽光に満ちた白とそれが落とす影とがしっかりと刻まれ、そのコントラストが魅力的だ。









ちなみに、短編映画「サイモン」はショーン・コネリーが映画出演した二作目らしい。また、カスパリウスが監督・製作した、スコットランドを舞台にしたドキュメンタリー映画「You Take the High Road (1950s)」は、ここで見ることができる。

 
 
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