2015年6月23日火曜日

映写技師の問題



以下は「映写技師の問題」と題された1926年の論文からの抜粋(翻訳:筆者)です。著者はルイス・M・タウンゼント、イーストマン劇場の映写部長です。当時、イーストマン劇場と言えば、アメリカ国内でもトップと呼ばれたクオリティの高い映画館でした。その映画館の映写技師のグループを束ねていた人物による、その当時の問題意識です。

今の私の最大の問題は、1000フィートの週替りプログラム、2000フィートのコメディ、8000フィートの長編映画を2時間のプログラムに詰め込まないといけないと言うことだ。この2時間には、この他に8分か10分の序曲の演奏と、5分か10分くらい別のショーがある。これを映写速度を上げずにやらないといけない。イーストマン劇場では、これだけのプログラムを組まないと十分に楽しいものにならないと考えている。では、どうするか?標準スピードの1分当たり80フィート(約21fps)ではなく、1分当たり90から100フィート(24fpsから約27fps)で映写する。全部で120分しかない。しかも10分は演奏、10分はショーにとられ、映画には100分しかない。これだと9000フィートしか見せられない。そこで、コメディを1200フィートくらいにまで減らし、長編映画からは1000フィート分を減らす。これらはおおよその目安だが、プログラム全体では9000フィートを超えるわけにはいかないのだ。これをどうするかと言えば、--切るのである。これは易しい仕事ではない。私たちはこうしている。まず、支配人、音楽監督、そして私で最初に試写をする。その後、何を削れるか議論をする。この段階で、私は長さにしてどれくらい削れるか見当をつける。そして映写スピードと長さが決められる。そこでこの情報を記したメモを作って保存しておく。上映の段階になってプリントを受け取ると、もう一度上映して必要な編集(カット)をする。これは大体6時間から7時間かかる。製作者や配給(film exchange)は映画を切られるのを嫌がる。だが、彼らが長編映画を7000フィート以上で出してきたり、1000フィートにしたほうが面白いコメディを2000フィートで出してきたりする以上、こちらは切り続ける。もちろん、私たちは、映画のある部分をごっそり1000フィートも2000フィートも切ってしまうわけではない。リールごとに見ていって、ストーリーに直接関係無いような事柄や不必要なディテールや尺あわせをカットするのだが、これが結構たくさんあるのだ。

この論文の後に、映画技術者協会のトップたちとタウンゼント氏による議論があります。これはほぼ全部掲載します。

議論

ヒル氏(陸軍)・・・イーストマン劇場が、他でよくやられているように映写速度を極端に速くするようなことをせず、編集をして短くするという大変な思いをしているのだと聞いて嬉しく思う。2時間の映画を無理やり速くして1時間半で見せるような映画館は、観客をだましていると思う。13オンスのバターを1ポンドだと言って売っている八百屋のようなものだ。

クック会長:私は、13オンスを1ポンドだと言って売っている八百屋だとは思わない。客は1ポンド受け取っているが、消化できるよりも速く喉に押し込まれているんだと思う。

パーマー氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』):タウンゼントさんにそのカットについて聞きたいのだが・・・、自分たちでやる代わりに配給にカットしてほしいと頼んだことはないんですか?業界で製作側にいる人間としては、映写技師や映写部長なんかよりも配給のほうがそういうことはまともにできる気がするんだが・・・

タウンゼント氏:私たちは一度配給にカットを頼んだことがあります。あまりに酷かったのでそれ以降はもう頼まないことにしました。配給はただ映画の一部分を500フィートまるごとカットして、ストーリーが一部分なくなってしまったんです。見た人はみんな気づきました。我々は判断しながらカットします。ある映画から500フィート分をカットしたいのなら、私は非常に気を使いながら、リールごとに少しずつ切り出します。私は試写の時に一度見て、その後もう一度リールごとに見ます。記憶に頼って、長編映画を作業したりしません。ストーリーを一部分まるごとカットしたり、ストーリーにとって重要な出来事をカットしたりしないようにしています。脇の演技とか明らかに尺を埋めようとしたところとかを削除するんです

デニソン氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』映写担当):私は劇場側で映画をカットする権利などないと思う。映画はスタジオで適切に編集され、完璧な形なのだ。映写技師に映画を再度カットする資格などない。配給でさえ、検閲にかかったところをカットする以外には何もしない。劇場で映画をカットしないように過去にも何度も言ってきた。もし映画が長すぎたり、尺あわせをしているようだったら、製作側に話をもってくるべきだ。劇場で訳も判らない切り方をされては、映画のストーリーの価値がなくなってしまう。

リチャードソン氏(映画雑誌『モーション・ピクチャー・ワールド』編集):私は、切らないでそのままのほうがいい映画など見たことがない。尺あわせみたいなことをするせいで、時事ものや長編やコメディを限られた時間で上映しないといけない多くの劇場が困っている。上映時間は支配人が詰め込みたいプログラムにはとても入りきらない。私は言い続けてきたし、またここでも言うが、有能な映写技師の最も重要な仕事の一つが、映画をみて、もうどの映画にもくっついている要らない部分を切り落として、映写スピード上げずに時間内に上映することだと思っている。



出典 Lewis M. Townsend, "Problems of a Projectnist", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 10, p.7 (1926)

2015年6月20日土曜日

動くカメラ (7)


カメラを動かすこと自体は映画の黎明期から行われていたのですが、ハリウッドでそれがより自由度を増すのは1920年代の後半になってからです。その最大の理由が「モーター」でした。今まで紹介してきた様々な動くカメラのシーンの撮影においても、大部分がモーターでカメラの駆動しています。

まず前提として、サイレント期においては、カメラは手でクランクして撮影をしていたということ、そして映写も映写技師が手でクランクして映写していた、ということを確認しておかなければいけません。これは手でクランクするのですから、常に速度が一定とは限らない、ということです。ということは、撮影時の物理的な(絶対的な)時間の進み具合に対して、撮影されたフィルムに写っているものは、カメラマンのクランクの具合によって伸び縮みするものだ、ということです。さらに、その写ったネガから起こされたプリントの映写では、映写技師のクランクの具合によって、また伸び縮みする、ということです。よく「サイレント映画の映写スピードは16fps(フレーム/秒)」という記述を見かけますが、これは決して絶対的な規範として当時の業界に流通していたわけではありません。むしろ、この伸び縮みを自由に利用して、例えば、アクションシーンでアンダークランクで(遅く回して)撮影する、ということは日常的に行われていました。映写時にそれを普通にクランクすれば、他のシーンに比べてアクションが加速されて映し出される、という仕組みです。1923年のTSMPE誌に掲載された「撮影時と映写時のスピードを同期させる重要性 [1]」という論文は当時のそういった慣習に対して疑問を投げかけたものですが、その論文に付記された「議論」でのM・W・パーマー(映画製作会社『フェーマス・プレイヤーズ・ラスキー』所属)の反論がすさまじいのです。

私はリチャードソン氏のこの問題に対する姿勢に同意しない。スクリーンで映し出されるものは、カメラの前で起きたことを複製しなくてもよい、と私は考えている。これは芸術的な上映であり、必ずしも機械的に正確である必要などない。撮影時のスピードについて言えば、監督が気にしていることは、そこで伝えようとしている思いに対して、動きが添っていればよいのだ。例えば、リチャードソン氏が挙げた死の床のシーンを考えてみよう。ここで監督は、映画館ではどうせ速いスピードでクランクされるであろうと予想して、カメラマンに速いスピードでクランクさせて撮影するだろう。そうすれば、上映時にはそのシーンだけは前のシーンに比べて遅く写るだろうし、それだけが監督の気にしていることだ。

一方で、リチャードソン氏はその論文の中で「カメラマンは自分のクランクの速度が一定であることを強硬に主張する」とも述べています。ややこしいですが、現実には撮影時のクランク速度はシーンに合わせて変化していたけれども、建前としては一定速度だったと主張していた、ということのように見えます(注)。


ベル&ハウエルのモーター駆動カメラ
左側の下に向かってコードが出ているのがモーター
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1923年
 
そのような背景のなかで、カメラにモーターが搭載されたという経緯があるのです。

ハーバート・C・マッケイの『映画撮影ハンドブック(1927) [2]』には、手でクランクするカメラはプロフェッショナル用だが、「三脚で固定できること」が必須条件だと述べています。この状態でカメラを動かすためには三脚とカメラマンごとドリーや自動車に乗って動く必要があります。そして、それが長い間、カメラの動きを制約していました。

『つばさ』撮影時、ベル&ハウエルを飛行機に搭載
矢印はモーターを示している
ベル&ハウエルの広告から
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1927年

カール・ルイス・グレゴリーによる記事(1921年)[3]に、ベル&ハウエルの映画用カメラのモーターに関しての記載があります。110ボルトの電源で速度可変(4 fpsから24 fpsまで)、逆回しも可能のメカニズムでした。これらはケーブルでリモートコントロールが可能です。モーターによる駆動の理由の一つとして挙げられているのが、「危ない(hazardous)シーン」での撮影があります。ただし、この場合、110ボルトの電源ケーブルが届く範囲でしか動かすことができません。おのずとスタジオ内での撮影が主なものになり、これでは特に「危ないシーン」を撮影する機会はありません。カメラは電源ケーブルからも開放される必要があったのです。1923年の『アメリカン・シネマトグラファー』誌 [4]に、ゴールドウィン・ピクチャーズがカメラ会社と協力して「自動車上で安定した電源をカメラのモーターに供給できるシステムを考案した」とあります。さらに、コスモポリタン・ピクチャーズ製作の『Unseeing Eyes』の撮影では、飛行機にカメラマンなしでモーター駆動カメラが搭載され、飛行機に乗った俳優がその操作をした様子が記載されています。まさしく危ないシーンをカメラだけで自動駆動で撮影するようになったのです。

カメラをハンドクランクすること自体は撮影のメカニズムの一部だったわけですが、そのことを考えると、カメラをモーター駆動にしたのは人間のためではなくて、カメラのためだったのではないでしょうか。カメラを人間から解放して、人物を追跡させ、飛行機に載せ、人間が危なくて行けないところ、人間の目でファインダーを覗けないところへ送り込む。モーターのケーブルからも解放し、バッテリーで駆動するようにしていく。そうしないとカメラは動けなかったのです。

『サンライズ』撮影中の様子
一番右がF・W・ムルナウ、その左がカール・シュトラス
カメラにはモーターが搭載されているのが見える


[1] F. H. Richardson, "Importance of Synchronizing Taking and Camera Speeds", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 17, p.117 (1923)

[2] Herbert C. McCay, "Handbook of Motion Picture Photography", Falk Publishing Company, 1927

[3] Carl Louis Gregory, "Motion Picture Cameras", Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 12, p.73 (1921)

[4] "Motor-Driven Cameras Given Practical Usage", American Cinematographer, 4, p.22 (1923)




追記注(2015.6.21)

(注)映写も1920年代に入ってからは多くがモーター駆動になっていきます。特に都市部の大型映画館は大部分がモーター駆動の映写機を使用するようになってきていました。

2015年6月17日水曜日

動くカメラ (6)

サイレント映画の長回しはなぜ短いのか

街の天使 Street Angel (1928) フランク・ボゼージ監督


ムルナウの『サンライズ(Sunrise, 1927)』が当時のハリウッドの関係者、特にフォックスにいた監督やカメラマンに与えた影響は非常に大きかったと言われています。特にフランク・ボゼージとジョン・フォードは、その影響が非常に如実に映像に表れています。



このショットの撮影の様子
カメラが原始的なクレーンに載せられている

これは『街の天使』のオープニングのショットです。人物と一緒にトラッキングしていたカメラが突然浮き上がり、広場の全景をパンしながらとらえていきます。すると階段に現れた男女にフレームが固定され、今度はそこへ寄っていき・・・と様々に用意された演出にカメラが焦点を合わせながら浮遊し続け、最後にストーリーの焦点となる家の前に集まる人々を映し出します。この1分弱の長回しが、ストーリーの導入部となっています。

ジョン・フォードの『四人の息子(Four Sons, 1928)』では、『サンライズ』のセットを多く使っているだけでなく、カメラの動きも強い影響下にあることがうかがえます。たとえば、『サンライズ』の夜の沼のシーンの対ともいえる、霧の戦場のシーン。ここではカメラはムルナウの時ほど複雑な動きはしませんが、それでも霧の戦場を彷徨うカメラは、都会の女に会いに行く男を追跡するカメラを髣髴とさせます。





先ほど「1分弱の長回し」と書きましたが、今の私たちの感覚からすると、1分程度ではとても長回しとは言わないだろうと思います。サイレント映画では、基本的にショットは短く収めてきていました。トーキーのように、役者たちの長セリフをカットなしで撮影する、というようなことがサイレントにはできないからです。しかし、カメラが動くようになり、その動きがより複雑に浮遊するようになると、ショット長は長くなっていきました。


ところが、3分を超える長回しは存在していません。なぜでしょうか。理由はカメラネガの現像にありました。

当時、カメラネガの現像はフィルムをラックに架けて現像液のタンクに入れる方法がとられていました。このラックに架けることのできるフィルムの最大長が200フィートで、16フレーム/秒(サイレント期の平均的な撮影スピード)で換算するとおよそ3分です。いくらカメラのマガジンを大きくしようが、結局現像で200フィートに切られてしまうので、最長でも3分の長回ししかできないのです [1]。

映画初期の現像の様子(1899)[3]

現像用ラック(1935)[3]

このタンク&ラック式の現像方法は多くの問題を抱えていました。フィルムが現像液につかって収縮したり延伸したりすることで、フィルムがラックから外れたり、ラックに接触している部分の現像がムラになったり(プリントを上映すると、ラックの長さで周期的にムラが出てきたりする)と、生産性が決して高い方法ではなかったのです。それでもこのタンク&ラック式が使用され続けたのは、機械によって大事なカメラ・ネガに傷がついてしまうことを恐れたのと、撮影時の露出不足や過露出を現像で救える、とされていたからでした。ユニバーサルの写真部主任、C・ロイ・ハンターはこう述べています [2]。

映画フィルムのカメラネガを機械で現像するというのはここ数年検討されてきているが、カメラネガは非常に高価なものであり、その扱いには極度の慎重さが要求されるため実用化が敬遠されてきた。

また、(撮影上の)問題があるネガでも現像工程で救済できる、あるいは少なくとも改善できると言う間違った考えのために、機械による現像が困難になっていた。

「カメラネガが高価である」というのは、その撮影のために多くの資金(セット、役者、監督 etc.)が費やされ、たった1度きりの機会を撮影したものなので、傷めてしまうと取り返しがつかない、と言う意味です。そういう観点では、映写用のプリントの現像はもう既に何年も前から機械化されていたのです。またハンター氏は「現像によって下手な撮影を救済する」という考え方を間違っていると一蹴しています。

ユニバーサルでは、映写プリント用の自動現像機のSpoor-Thompsonに、カメラネガを傷つけないように様々な改良を加えてテストを開始します。そして、『笑う男(The Man Who Laughs, 1928)』ではじめて連続式現像装置を導入しました。『笑う男』は6ヶ月にわたる撮影でしたが、その長い撮影期間にもかかわらず現像してみるとバラツキがみられませんでした。従来のタンク&ラック式では、季節による温度変化のため、現像の出来が冬と夏では違う、といったことが起きていましたが、その心配がなくなったのです。

ユニバーサルが導入したSpoor-Thompson現像機 [3]
現像機の処理能力は1時間当たり4000フィート以上で、どんな長さのネガでも切らずに現像できる。これはタンク&ラック式の現像法では望めない。シーンを切ることはシーンの連続性(コンティニュイティ)にとって非常に有害だ。最近の映画製作では、一つのショットでロングショット、セミロングショット、クローズアップを途中止めることなく一続きで見せるようなアプローチショットが多い。機械式現像機のこの特徴は、最近の映画製作にとって、非常に大きな力になるに違いない。

ハンター氏は述べていないのですが、この後、トーキーの到来と共に、この機械は光学式のサウンドトラックの現像においては非常に重要な役割を担うことになります。サウンドトラックは、常に同じ条件で現像される必要があるからです。

[1] An Evening's Entertainment: The Age of the Silent Feature Picture, 1915-1928, R. Koszarski, University of California Press, 1994, p.174
[2] "A Negative Developing Machine", C. Roy Hunter, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers; April 1928; 12:(33) 195-204
[3] A Technological History of Motion Pictures and Television, R. Fielding, University of California Press, 1967

2015年6月15日月曜日

動くカメラ (5)

本当にカメラは解き放たれたのか

 

サンライズ Sunrise (1927) F・W・ムルナウ監督

"Fluid Camera"


F・ W・ムルナウはドイツで『最後の人(Der Letze Mann, 1924)』を監督しました。この作品で、カール・フロイント(撮影)とともに非常に独創的なカメラ・ムーブメントに挑戦し、それは "die entfesselt Kamera(飛ぶカメラ)"と呼ばれていました。

ウィリアム・フォックスがドイツからムルナウを招聘し、白紙委任で監督させた作品が『サンライズ(Sunrise, 1927)』です。強調遠近法を利用したオープンセット、ディープ・フォーカスを使用した構図、少ない光源をうまく利用した夜のシーンなど、当時のハリ ウッド映画の常識を大きく覆した演出を盛り込んだ作品です。そのなかでも、湖からゆっくりと街に走る「路面電車の移動」と、この「夜の沼での密会」は、その後のハリウッドの映像文法を考える上でも重要なシーンです。



この沼でのシーンのようなカメラの動きを、ムルナウは好んで「解き放たれたカメラ(Unchained Camera)」と呼びました。これは、例えば『つばさ』のトラッキング・ショットのような直線的な動き、あるいは飛行機に固定されたカメラのように、運動する物体からみた景色の動き、さらには手持ちカメラといった、動くものにくくりつけられた(Chained)カメラの映像とは一線を画しています。カメラは自由に浮遊し、人物を追跡するだけでなく、柵を超え、葦の茂みを分け入って進み、カメラ自体に意思があるようにさえ感じられるのです。様々な動きの多重化、多層化を見事に捕捉して、「カメラが動く」ということ -フレームが動き、動くものがフレームに収められるということー をトラッキングや手持ちといった制約から解き放ったように見えます。

この「夜の沼」のシーンの撮影の様子は、スチル写真などで見たことがありません。ジョン・ベイリー(撮影監督。『恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day, 1994)』『キャット・ピープル(Cat People, 1982)』)によれば、カール・シュトラスが天井から吊るされたドリーに乗って、モーターで動くベル・ハウエルで撮影したようです。よく観察すると、ドリーはほぼ直線上を動いています(追記注)。にも関わらず、カメラがその直線から解き放たれたように見えるのは、ドリー上でカメラが左右にパンしつつ、カメラの向いている方向がドリーの進行方向と一致していないこと、ドリーの移動速度が変化すること、そして(おそらく)最初に出てくる月と最後に出てくる月は別のプロップ(道具)なので、観ている者の空間把握を狂わせるからだと思われます。

このショットのNGテイクのプリントも残っているのですが、そこでは、動きが突然速くなって、ドリーが上下に揺れてしまっているのが、画面の揺れとなって現れています。実は人物の動きとの同期がずれてしまって、ドリーが速く動かされたのです。そこから考えると、このカメラの動きは実は「解き放たれ」てはおらず、別のものにくくりつけられたのではないでしょうか。今度は何にくくりつけられたのか。それは「動きの同期」です。人物の動きの軌跡とカメラの軌跡はあらかじめ決められていて、その同期が図られることで初めてフレームの中に求められていた動きが現れる。そして、動かすメカニズムがばれてはいけない。ドリーの振動や移動速度の急激な変化など、カメラが設置されているメカニズムの特性がフレームに現出してはいけないのです。

この「動きの同期」と「メカニズムの透明化」が重要なのは、その後のクレーンの登場や長回しの演出という、ハリウッド映画において重要な位置を占める技法の基盤になるからです。

(追記注)  2015.6.20
カール・シュトラスは、これは天井からつるされた「パーアンビュレーター(乳母車、この場合はドリーのようなもの)」で逆S字の動きをした、と発言しています。(TSMPE, 12, p.318 (1928))

2015年6月14日日曜日

動くカメラ (4)

帝国ホテル Hotel Imperial (1927) モーリッツ・スティルレル監督

手持ちカメラ


これは「帝国ホテル」ではなく、「明眸罪あり(The Temptress, 1926)」の撮影現場
左はモーリッツ・スティルレル監督
右でタンゴを踊っているのがグレタ・ガルボとアントニオ・モレノ
カメラ(手持ちカメラのEyemo)を構えているのがトニー・ガウディオ
モーリッツ・スティルレルはこの映画の撮影に入って10日ほどで降ろされ、
代わりにフレッド・ニブロが監督をつとめる

「帝国ホテル」のダンスのショットも手持ちカメラ(Eyemo)で撮影されたものでしょう。Eyemoとは1925年から市場に導入されたベル&ハウエル社の手持ち35mmカメラ(Hand-held Camera)。1970年代まで使用されていました。ニュース用、あるいはドキュメンタリー用として主に活躍していましたが、このように劇映画でも多く使用されています。無声映画の当時は、撮影は手のクランクしていましたが、Eyemoはゼンマイ駆動なので、握っているだけで撮影できました。このおかげで機動性が格段によくなりました。

American Cinematographer誌に掲載されたEyemoの広告(1927)
Eyemoを握っているのはセシル・B・デミル
「キング・オブ・キングス(The King of Kings, 1927)」で使用

他にも、1920年代後半に手持ちカメラが市場に登場しています。1910年代からニュース映画用として使用されていたAkeleyよりも、より機動性のあるDeVry、Cine-Kodakなどが盛んに広告を出しています。

DeVryカメラの使い方の例
特別なクランプで様々な場所に固定できる

これを思い出しました
ニード・フォー・スピード(Need for Speed, 2014)の撮影現場
GoPro3を設置しています
(via. hurlburvisuals.com)
これはシドニー・フランクリン監督が「クオリティ街(Quality Street, 1927)」撮影中に、ローラースケートを履いてEyemoで撮影している様子です。

 
 このような撮影手法もサイレント後期の1926年以降にはかなり頻繁に現れるようになります。

2015年6月11日木曜日

動くカメラ (3)

クオリティ街 Quality Street (1927) シドニー・フランクリン監督

ダンスのショット


上のシーンの撮影の様子
右手に吊り下げられたカメラ
照明も一緒に回転するようになっている


群集 The Crowd (1928) キング・ヴィダー監督

滑り台のショット




撮影はベル・ハウエルにモーターを搭載している
撮影はヘンリー・シャープ(のちに『我輩はカモである (1933)』や『恐怖省 (1944)』を担当)

2015年6月10日水曜日

動くカメラ (2)

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

ブランコのショット



撮影の様子
カメラの三脚にもたれているのが
ウィリアム・ウェルマン監督


飛行機からの攻撃




カメラ設置の様子
モーターで動かすための配線が見える


2015年6月9日火曜日

動くカメラ (1)

先日のUNKNOWN HOLLYWOOD第6回のトーク内で「動くカメラ」についてお話をしましたが、そのいくつかについて、実際の撮影の様子を紹介します。

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

トラッキングショット





このトラッキングショットの撮影の様子
天井から吊るされたドリーに乗っているのは
監督のウィリアム・ウェルマン
カメラがドリーの前方に固定されている
照明の設置に注目


『第七天国』 Seventh Heaven (1927) フランク・ボゼージ監督

トラッキング+エレベーターショット



撮影の様子
2階でポケットに右手を入れて上を見上げているのが
フランク・ボセージ監督



 
 
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