『疑惑の影』
サンタ・ローザでの夜間ロケーション

前の記事のような状況下で、プロデューサーのジャック・スカーボールと監督のアルフレッド・ヒッチコックは『疑惑の影』のロケーション撮影をおこなった。ニュージャージーで序盤のシーンを撮影した後、大部分を北カリフォルニアのサンタ・ローザで撮影した。

サンタ・ローザ

『疑惑の影』の4年前に、<実在の町>を背景にロケーション撮影した作品として注目を集めた作品がある。MGMの『少年の町(Boy's Town, 1938)』は、ネブラスカ州オマハにあるボーイズ・タウンで全編ロケーション撮影され、実際にボーイズ・タウンの少年たちが映画に出演している。『少年の町』は興行的にも成功しただけでなく、MGM、あるいはMGMスタジオのトップであるルイス・B・メイヤーの哲学を具現化した作品として、その後の保守的、アメリカ製カトリック的物語の精神的鋳型(アーケタイプ)として機能した。<実在の町>を背景(バックドロップ)として、その町の<性格>や<佇まい>を物語のなかで機能させる手法を、再度挑戦したのが『疑惑の影』だと言ってもよいかもしれない。だが、スカーボール/ヒッチコック/ソーントン・ワイルダーは『少年の町』で描かれた保守的なアメリカ神話を逆手にとって、神話の舞台である<アメリカの小さな町>の内部と外部の<悪>が見せる相似を描いた。その神話の舞台として、サンタ・ローザが選ばれたのだ。

この『疑惑の影』が特異的なのは、その製作過程が詳細にメディアに取り上げられている点だ。撮影がおこなわれた8月1日から25日にかけて、サンタ・ローザの地元新聞「The Press Democrat」と「Santa Rosa Republican」が、連日撮影の様子を報道していた。まさしく「ハリウッドが町にやってきた」「この町がスクリーンになる」という興奮と高揚感に満ち溢れた記事が、日本軍のアリューシャン列島攻撃の見出しの横に並んでいる。この記録の存在は貴重だと思う。これらのおかげで、私たちは撮影がどのように進行し、<ハリウッド>がこの小さな町にどのようなインパクトを与えたかを知ることができる。もう一つの大事な報道は映画公開後に雑誌「ライフ」に掲載された「$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets」という製作レポートだ[1]。このレポートは、そのタイトルが示す通り、ヒッチコックがいかに工夫して、WPBの<$5,000のセット材料費上限>ルールをクリアしたかという称賛記事である。後述するようにロケーション撮影とセット撮影の組み合わせによって製作費を抑えたプロセスが具体的に明らかにされている。

この「ライフ」の記事と地元新聞の報道を突き合わせて見ると、非常に興味深いことが見えてくる。「ライフ」の記者とカメラマンは、スカーボールとヒッチコックが撮影に入る前から、彼らに同行して取材を重ねているのだ。サンタ・ローザでのロケーション撮影が発表されたのは1942年6月2日だったが、すでにその時に「ライフ」のカメラマン、ジョージ・アイヤマンがロケーション・ハンティングをするヒッチコックやソーントン・ワイルダーの写真を撮っている、と「The Press Democrat」が報じている[2]。実際、このときの撮影と思われる写真が記事に掲載されている。つまり、この<ロケーション撮影を使って製作材料費を抑える>という物語(ストーリー)を、全国的な雑誌で取り上げて報じるという計画が製作の初期の段階からあったということだ。<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして機能したわけだが、前述のビーゼンの記述を見ると、いかに効果的なプロパガンダだったか(であり続けているか)ということがよく分かる。

『疑惑の影』のロケーション撮影を伝える「ライフ」誌の記事
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これは、開戦直後にハリウッドの戦争協力が限定的だった状況を考えると興味深い。WPBの材料統制がきっかけとなって、ハリウッドが自発的に戦争協力のプロパガンダを編み出すようになっていたのかもしれない。それを、すでに戦争に突入して3年目になるイギリスから来たアルフレッド・ヒッチコックと、ユダヤ教のラビとして20年近くつとめていたジャック・H・スカーボールが率先しておこなったという点は、示唆的であるように思われる。

『疑惑の影』のロケ地として、サンタ・ローザが選ばれた背景には、前述のロケーション撮影の抱える様々な問題を迂回できる要素が整っていたことも挙げられるだろう。この町はサンフランシスコの北、ソノマ郡にあり、ロサンゼルスからは680キロメートル(422マイル)離れている。これは前述の全米映画俳優組合との<300マイル・ルール>が適用されない土地だ。製作発表と同時に、地元での100人程度のエキストラ採用が始まっている[2]。このエキストラには、全米映画俳優組合がプロデューサー達と取り交わした契約が適用されない。どのような待遇だったかは不明だが、組合のレートと同等だったとは考えにくい。結局、1000人もの住人が映画のエキストラとして採用されていた[3]。チャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)の妹、アン・ニュートン役に抜擢されたエドナ・メイ・ウォナコットは、サンタ・ローザ在住の10歳の少女で、サンタ・ローザの4番通りとメンドシノ通りの交差点でバスを待っているところを見かけたヒッチコックに<発見>された[4]。ウォナコットの抜擢は地元で当然注目を集め、この「シンデレラ」について新聞は些細な事でも記事にした[5]。映画の出演者、撮影クルーは撮影期間の4週間のあいだ、サンタ・ローザのオキシデンタル・ホテルとサンタ・ローザ・ホテルに宿泊、膨大な量の撮影機材は地元の倉庫で保管、撮影のための移動手段はやはり地元の業者が担当したが、そういったお膳立てはサンタ・ローザの商工会議所が率先しておこなっていた。こういった報道を醒めた目で見ていると、狡猾なハリウッドの映画人たちが、地方の小さな町の人たちの浮かれた気分を手玉にとっているようにしか見えない。まるで、映画のジョセフ・コットンが、映画の中のサンタ・ローザの人たちの無知を利用する様子のパラレルを見ているようだ。

アメリカでも、1950年代までは幹線道路以外はまだ整備されていない地域は多かった。その点サンタ・ローザは、サンフランシスコなどの都市部から離れた町だが、交通の便には恵まれていた。1930年代に、サンタ・ローザを通るUS101号道路はほぼ舗装化されていたし、サンフランシスコ湾も1937年にゴールデン・ゲート・ブリッジが開通して、ソノマ郡とサンフランシスコが直通している。映画の撮影クルーと出演者たちは、撮影開始の前日(7月30日)に鉄道とグレイハウンド・バスを乗り継いで、現地入りしたと伝えられている[3]

『疑惑の影』の夜間撮影

サンタ・ローザは海岸からも離れているため、沿岸部に適用される規制の対象外である。消灯令もなく、夜のロケーション撮影も夜通し可能だった。夜の撮影に使用された照明も当時の新聞[6]や「アメリカン・シネマトグラファー」誌[7]に報告されている。サン・アーク(カーボン・アーク灯)10台、24インチ・サンスポット(カーボン・アーク灯)19台、"シニア"(白熱灯)6台、"ジュニア"(白熱灯)10台、No.4 フラッドランプ 50台、No.2 フラッドランプ 50台、No.1 フラッドランプ 50台、スカイパン(拡散反射板)10台、これらを全部同時に使用して(3,000アンペア)撮影がおこなわれた(通称についての説明は[8]を参考にした)。電力は撮影隊の電源(1,250アンペア ガス発電機、50キロワット変電機)が供給している。オフィスビルの窓にはフラッドライトが使用されたが、家庭用電源でまかなえるのが便利だった(フラッドライトは、1940年代のロケーション撮影の機動性を高める上で極めて重要な役割を担っている)。カメラのフィルム・ストックは、『市民ケーン』でも使用されたコダックの高感度フィルム(Super-XX)が使用されている[7]

ところが、撮影に入って数日後に、西海岸全域での灯火管制(ディムアウト)が発表される。海岸から比較的遠いサンタ・ローザも灯火管制の地域に入っており、灯火管制(ディムアウト)開始の8月20日から夜のロケーション撮影が実質的に不可能になった。前日までに夜間撮影を終えるようにスケジュールが組み直され[9]、13日と14日には徹夜で撮影が行われた。しかし、夜間撮影を期日までに終えることができず、20日には民間防衛局(Office of Civilian Defense)の許可を得て夜の9時まで撮影をおこなっている[10]

サンタ・ローザでのロケーション撮影は8月25日まで続いた。地元新聞は、映画の撮影進行状況を事細かく伝え、小道具担当やグリップなど撮影クルーたちの談話を載せている[11], [12]。25日の最後の撮影は、<チャーリーおじさん>の葬式の場面だった[13]。サンタ・ローザの住民数百人がエキストラとして参加して、もうハリウッドに戻ってしまったジョセフ・コットンの葬式がしめやかにおこなわれた[14]

この後、ハリウッドに戻って追加のセット撮影が行われている。前述の「ライフ」誌の記事によれば、セットはサンタ・ローザでロケーションに使用された家を模して設計され、すでに他のセットで使用された材料を再利用して建設された。総額は$2,927で、WPBの制限額を大きく下回る。ここまで映画製作の内実を公開しているのは、この映画の製作自体を<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして利用する意図があったからにほかならない。同時期のハリウッド映画で、ここまで製作の経済的側面をメディアに露出させた作品は一本もない。

『疑惑の影』と同じように灯火管制(ディムアウト)のために夜間撮影のスケジュールの変更を余儀なくされた作品には、『砂漠の歌(The Desert Song, 1943)』、『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』、『カナリヤ姫(Princess O'Rourke, 1943)』などがある。空に向かって逃げる拡散光を出さなければよい、ということであれば、少し工夫をして乗り切った撮影もある。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『肉体と幻想(Flesh and Fantasy, 1943)』はサーカスのテントを張って、その下で夜のシーンの撮影をおこなった。RKOでは、エドワード・ドミトリク監督の『アルカトラズから7マイル(Seven Miles from Alcatraz, 1942)』の灯台のシーンを200フィート四方(60メートル四方)のキャンバスで覆って撮影した[15]

『疑惑の影』のスタジオでの撮影の様子
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参考文献

[1]^ “$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets,” LIFE, vol. 14, no. 4, p. 70, Jan. 25, 1943.

[2]^ “Hollywood Producers To Make Motion Picture Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jun. 03, 1942.

[3]^ “Movie Cast, Aides To Arrive Tonight From Hollywood,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jul. 29, 1942.

[4]^ “10-Year-Old S.R. Girl Gets Chance at Role in Movies!,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 2, Jul. 28, 1942.

[5]^ “S. R. Child Gets Contract as Work Starts on Movie Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 01, 1942.

[6]^ “Even Town’s Clock Stops to Aid Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 11, 1942.

[7]^ Joseph A. Valentine, A. S. C., “Using an Actual Town Instead of Movie Sets,” American Cinematographer, vol. 23, no. 10, p. 440, Oct. 1942.

[8]^ “Report of the Studio Lighting Committee,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXII, p. 44, Jan. 1939.

[9]^ “Santa Rosa’s Name Retained for Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 10, 1942.

[10]^ “Film Company In Twilight Shots Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 5, Aug. 20, 1942.

[11]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Prop’ Man Amazes With His Ingenuity,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 11, Aug. 21, 1942.

[12]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Grip Men’ Busiest Part of Film Crew,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 7, Aug. 22, 1942.

[13]^ “Movie Company to End S. R. Stay With ‘Final Rites’ Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 25, 1942.

[14]^ “City Turns Out for ‘Funeral’ in Movies,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 26, 1942.

[15]^ “Coast Takes Dimout in Stride, Nite Trade Booms as Curious Roam Streets,” Variety, vol. 147, no. 12, p. 5, Aug. 26, 1942.