『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』
左側に見えているのは音声トラック。
Duplex Varaiable Area Recordingが採用されているのがわかる[1]

ストックティッカーの音の響き

私は『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の75周年記念盤ブルーレイのボックスセットを所有している。日本で出回っている「500円DVD」とかの画質は、とてもではないが我慢できるものではなかったし、海外から取り寄せるにしても、注意して選ばないと何があるかわからない(PALバージョンは再生スピードが4%速いとか)。5年くらい前にこのボックスセットを購入したときは、ワーナー・ブラザーズがトランスファーし直したのだし、これなら映像も音響もかなり満足できるものだろう、くらいの気持ちだった。昨年、クライテリオンが4K UHDのディスクをリリースしたが、いまのところは購入する予定はない。4K UHDを再生する設備がないからだ。このブログでは『市民ケーン』を何度か取り上げているが、なんだか後世の人たちが技術の側面について嘘臭い話をでっちあげたり、いい加減なことを言っているから気になっているだけであって、そんなに何枚もディスクを持ちたいと思うほど命を捧げているわけではない。

先日、UCLAからリリースされている「A Century of Sound」のブルーレイに収められている『市民ケーン』のクリップを見ていて気になったことがある(確かになんやかんやで気になっている)。ワーナーのブルーレイ・ボックスの音響の印象とどうも違うのだ。バーンステインのオフィスのシーン、雨がガラス窓に降りかかっている。わびしく寒さが漂うオフィスで、バーンステインが「ミスター・ケーン」の話を始める。UCLAのブルーレイのほうだと、バーンステインの声が、ほんの少しだが、部屋の空間の音響が際立つように聞こえるのだ。ワーナーのブルーレイでは、バーンステインの声はもう少し「前に」来ているように感じた。「A Centruy of Sound」のディスクは、映画の音響技術の歴史を総括的に追っていく学術的なものなので、「古い映画のサウンドトラックに関しては、デジタル・オーディオによる復元に頼ることなく、オリジナルを尊重して再現した」と注意書きがある。つまり、アーカイブのフィルム素材のサウンドトラックを「なるべく生のまま」トランスファーした、ということだ。ワーナーのブルーレイは、DTS HD Master Audioというオーディオ・フォーマットで実質的に可逆圧縮、環境さえ整っていれば音質の劣化なく再生できる。だが、いったい「何」に対して劣化しないかというと、ワーナーがブルーレイ用に起こしたオーディオ・ストリームのマスターに対して劣化しない、ということであって、元のフィルム素材のサウンドトラックとは別のはなしである。元のフィルム素材のサウンドトラックから、ブルーレイ用のオーディオ・ストリームが製作されるあいだにどのような処理が施されたのか。それが《復元》の作業なのだが、そこにはいろいろな思想が関わってくる(もちろん、これは映像についても同じことがいえる)。

実際に2つの音源を切り出して比較してみると、UCLAのブルーレイは高帯域のパワー(5kHz以上)が明らかに目立つのに対して、ワーナーのブルーレイのほうは高帯域が抑制され(特に8kHz付近)、相対的に2kHz以下の低域が若干伸びている。おそらく、ワーナーはノイズ・リダクションを行ったのだと思われる。音を聞くと明らかだが、ワーナーが低減したノイズというのは、フィルムのグレインに起因するノイズである。それとは別にコンプもかけているだろう。

『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』ブルーレイ・サウンドトラックのスペクトラム比較
ワーナーのブルーレイは高域のパワーが減少している。
バーンステインのセリフから「one of those old」の部分を比較

ワーナーが家庭用のディスクのマスタリングでノイズ・リダクションを使っても、別にそれが悪いことだとは思わない。結構値段の張るブルーレイのBOXセットを買って、わざわざHDMIで取り回してDTS HD Master Audioで再生しているのに、UCLA版のような「サーッ」というノイズがずっと入っていたら、怒り出す映画ファンは多いだろう。だが、《理想的な視聴環境》とか《製作当時を再現》というのはどういうことか、という点は気になってくる。もし《オーソン・ウェルズが完成させたそのもの》を再現しようとするのであれば、当時のナイトレート・プリントを当時の映写機にかけて、当時の真空管のアンプや高音域の伸びの悪いスピーカーとかをかき集めて上映するしかないだろう、ということになる。

つまり、映画を見るという体験は、映画館であろうと、家のディスプレイであろうと、スマートフォンであろうと、それぞれの視聴の前提をどうとらえるかで意味合いの幅が大きく振れる、そういう代物なのだ。「複製技術」と言われるが、私達の映像体験は、複製というよりアプロプリエーションとの相互作用だ。だから、「映画は映画館で見ないと意味がない」とか、「スマホで観ても映画は映画」と言った議論は、自分自身の体験に関して考えるものであって、他人の体験について難を言い寄るものではないと思う。「何のメディア」を「どんな期待を持って観ているか」は、人によって違うし、同じ人でも状況や気分によって違う。むしろ、この「自分自身の体験に関して考える」というのが思ったよりも難しい。

私も、今回UCLAのブルーレイを見て(聞いて)初めて、自分の体験の前提がどういうものだったのかを考えるに至った。もう随分前にフィルム素材で『市民ケーン』を見たが、それがどんな素材だったのか知らないし、バーンステインのオフィスのティッカーの音響がどう響いていたかとか、とてもではないが思い出せない。『市民ケーン』の音響がすごい、といったような話も、ワーナーのブルーレイを見ていれば(あるいはクライテリオンの4K UHDを見ていれば)わかるのかと言われれば、やはり《前提》をどこまで理解しているか、ということになる。現代の映画ファンが家庭でみることを前提に音響設計がされているものを鑑賞しているんだ、というのはどこかで心にひっかかっていないといけないのだろう。

ボロック家はなぜ耳障りなのか

『襤褸と宝石(My Man Godfrey, 1936)』は、ハリウッドのスクリューボール・コメディ全盛期の傑作のひとつだ。私も個人的には好きな作品である。『襤褸と宝石』が人口に膾炙するようになったのは、アメリカでこの作品がパブリック・ドメインに落ちていて、古い映画になじみがない人でも遭遇する機会が多かったからだろうと思われる。かつては、WalmartでVHSが$5.99とかで売られていたし、TVでもPBSで時折放映していた。

パブリック・ドメインに落ちているということは、一方であまり質の良くないコピーが出回るという事態を招く。『襤褸と宝石』も何代もコピーを重ねたプリントをもとにして、さらに何代もコピーを重ねたビデオが出回っていた。だから、音がかなり悪くても「コピーのコピーのコピーか、さらにそのまたコピーだからね・・・そういうもんでしょう」と思っていた。

だが、UCLAのロバート・ギットによれば、『襤褸と宝石』は公開当時から音がひずんでいたのだという[1]。そんなことがあるのか、と思うかもしれないが、この問題の背景には、当時ハリウッドで二種類の音声記録方式が存在していたことが関係している。メジャースタジオのうち4社はウェスタン・エレクトリック社の可変密度方式 variable density recording を採用し、RKOだけがRCA社の可変領域方式 variable area recording を採用していた。ところが、可変密度方式は可変領域方式に対して二つの点で劣っていた。一つは、可変密度方式のほうが音量が小さいということ、もう一つは映像と音声の品質を両立させる現像が困難だったこと、である。特に前者の「音が小さい」は、音質の良し悪しがあまりよくわからないプロデューサーたちにとっても、非常にわかりやすい欠点だった。映画館の映写室で同じボリューム設定で、自分の会社の映画よりもRKOのほうが大きな音が出るのである。こうなると、何でも「大きいほうがいい」くらいに考えているプロデューサーたちにとってメンツの問題だった。

スタジオの重役たちのなかには、耳があんまり良くない者もいて、ボリュームの設定を決めたら、ちゃんと大きな音が出るべきだと主張したりする。そうなると、音響監督は自分の考えに反して、直属の上司を満足させるために、薄い濃度でプリントするはめになる。

J. G. Frayne [2]

『襤褸と宝石』はユニバーサルの製作・配給だが、ユニバーサルの重役たちはエンジニアの反対を押し切って録音の音量を上げさせた。過変調で音がひずんでいても、かまわず音量を上げさせた。その結果、ミーシャ・アウアのゴリラの咆哮とキャロル・ロンバードの泣き声がヒステリックになったのは怪我の功名と言えるかもしれない。『襤褸と宝石』のボロック一家を「けたたましい」「やかましい」と感じる人が多いのは、録音にも原因があるのだ。

『襤褸と宝石(My Man Godfrey, 1936)』
左端は可変密度方式のサウンドトラック
『襤褸と宝石(My Man Godfrey, 1936)』
d. Gregory La Cava
Universal
オープニングの音楽がひどく歪んでいる

ハリウッド万歳

そうは言ってもスタジオの重役が全員、耳が悪かったり、頭が悪かったりするわけではない。無理に音量を上げようとすると悲惨なことになるくらいはわかる。現像の難しさも手伝って、可変密度方式に疑問を持ち始めるスタジオも出てきた。ワーナー・ブラザーズは可変領域方式に興味を示し始め、いくつかの作品で試験的に採用した。

一方、可変領域方式にも問題があった。「ブラスティング blasting」、あるいは「ジャンプ jumps」と呼ばれる現象で、セリフの単語単位や文節単位で突然音が大きくなって歪んでしまう現象である。ワーナー・ブラザーズの『聖林ホテル(Hollywood Hotel, 1937)』のオープニング、「ハリウッド万歳」の演奏も、このブラスティングが顕著に表れている。

「ハリウッド万歳」は、20世紀を通じて《ハリウッドを象徴する曲》としてアカデミー賞の授賞式なんかで頻繁に演奏されていた曲だが、この『聖林ホテル』がデビューである。ジョニー・デイヴィスとフランセス・ラングフォード、ベニー・グッドマン楽団がかなり頓珍漢な演出でこの曲を披露しているが、ベニー・グッドマン楽団の演奏はいつもの通りキレがいい。ジーン・クルパのドラムだって聞ける。しかし、コーラスは完全に過変調してしまい、ボーカルはどれも割れてしまっている。これが、「ブラスティング」だ。

『聖林ホテル(Hollywood Hotel, 1937)』
d. Busby Berkeley
Warner Bros.

少し話がそれるが、『聖林ホテル』も「ハリウッド万歳」も、ハリウッドがその根本に持っている薄汚いいかがわしさがにじみ出ている。この映画は、ハリウッドのゴシップ・コラムニスト、ルエラ・パーソンズの同名のラジオ番組から派生したものだ。パーソンズは自分の新聞コラムの影響力を梃子にして、このラジオ番組にハリウッドスターたちをノーギャラで出演させていた。タダで出演はお断りとジャネット・マクドナルドがギャラを要求すると、パーソンズは数年間、マクドナルドのことを記事にしなかった。タダ働きを正当化するパーソンズのやり口に、全米俳優組合が抗議していたが、いざ報酬を払うことで合意すると、今度はパーソンズは一方的に番組を終了させた。番組自体は人気があったので、ワーナーがそれにあやかって、こんな映画を作ったのである[3]

一方、このオープニング曲「ハリウッド万歳」は、リチャード・A・ホワイティング作曲、ジョニー・マーサー作詞だが、当初ワーナー・ブラザーズのプロデューサーたちは、この曲を全く気に入らなかったという。プロデューサーのなかには、何が癪に障ったのか、ホワイティングの楽譜を鷲掴みにして床に撒き散らした者もいた。ワーナー・ブラザーズの爛れて、乱暴で、腐りきった文化に精神を削られてしまったホワイティングは、この翌年、心臓発作で亡くなっている。マーサーの歌詞は今となっては、書かれていることの大部分がわかりにくくなってしまったが、もともとはハリウッドの《有名になるためならなんだってする》文化を皮肉っている。MGM、パラマウント、20世紀フォックスを、ほとんど名指しでこき下ろしている。だが、ワーナーの重役たちは、この歌詞をボロクソに罵った[4]。ワーナー・ブラザーズも似たようなもの(あるいはそれ以下)だったからだろうか。この『聖林ホテル』のバージョンには「any shopgirl can be a top girl, if she pleases the tired businessman」という《枕営業》を示唆する一節があったのだが(よくプロダクション・コード・アドミニストレーションを通ったものだ)、これ以降のバージョンでは「any barmaid can be a star maid, if she dances with or without a fan」という歌詞に置き換えられた。

話をもとに戻そう。

ブラスティングの問題は、結局RCAの技術者とRKOのサウンド・エンジニアたちの努力によって解決する。長いあいだ、原因は可変領域方式そのもの(さらに詳しく言えば、可変領域方式の心臓部であるガルヴァノメーターの応答性)にあると思われていた。ところが、エンジニアたちがいくらガルヴァノメーターを調べても、応答は理想的な《線形応答》だった。彼らは「なぜ、競争相手の可変密度方式ではブラスティングが起きないのか」という点に注目した。調べてみると、実は可変密度方式は記録される際に《非線形に》記録されていることがわかったのである。つまり、大きな音になるにつれて、記録される信号が比例してどんどん伸びて大きくなるのではなく、だんだん伸びが鈍くなっていくのだ(これは写真の露光とネガの濃度の関係を表したHD曲線にも表れている)。この信号の圧縮のおかげで、可変密度方式では音の歪みが起きにくかったのである[5]

RKOのJ・O・アールバーグとJ・G・スチュワートは、可変領域方式で記録する際にあえて非線形な応答特性になるように回路を設計した。つまり、オーディオ・コンプレッション(圧縮、コンプをかける)を導入した。この技術のおかげでブラスティングがほとんど発生しなくなった。

オーディオ・コンプレッションは、たちまち業界に広まり、1940年にはほぼすべてのスタジオが導入していたようだ。下図のコンプレッサー特性は、リパブリック・ピクチャーズが1939年に導入したものだ。直線Cがコンプレッションをかけていない線形の応答、それに対してAとBの2段階のコンプレッサー(入力が8dB以上のBはリミッターとも呼ばれる)が適用されている。

リパブリック・ピクチャーズのリレコーディング・コンソールのコンプレッサー特性[6]

生まれながらの負け組

ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ(The Long Goodbye, 1973)』は、レイモンド・チャンドラーの原作を1970年代のロサンゼルスに移行した設定、撮影監督のヴィルモス・ジグモンドの「フラッシング」というテクニック、そして画期的な音楽の使い方で有名な作品だ。音楽は『ジョーズ(Jaws, 1975)』や『スター・ウォーズ(Star Wars, 1977)』で世界的に有名になる前のジョン・ウィリアムズと前述のジョニー・マーサーだ。この映画で、アルトマンは、同じモチーフを様々にアレンジするように注文した。場面に応じて、同じメロディが、ラウンジバー風、ミュザック、マリアーチと言った具合に変奏されていく。

『ロング・グッドバイ』の冒頭とエンドクレジットで、前述の「ハリウッド万歳」が使用されている。しかも、わざわざ『聖林ホテル』のバージョンを使っている。歪んでいるうえに割れるような雑音に潰された、あまりに唐突な音をノン・ダイエジェティック non-diegetic に使うのは、ちょっとしたユーモア以上のなにかしらの意味があるはずだ。もちろん、「ハリウッド万歳」がジョニー・マーサーの歌詞だというつながりはある。そして、フィリップ・マーロウが古いハリウッドから転送されてきたヒーローだという映画全体のテーマとも通底しているだろう1)。だが、この音が叩き出す調和の綻びは、物語全体を流れる「他人を欺いて利用できるだけ利用するハリウッド=アメリカという文化の胡乱さ」を歴史的に、フラッシュバックのように暴露する働きをしているように思う。ルエラ・パーソンズや映画スタジオの重役たちの横暴、自動車修理工や売り子が、イケメンだったり枕営業だったりで有名になる仕組み、そのかげでエンジニアたちが音や映像の技術をなんとかものにしようと努力しても無視され、ヒット曲の作曲家が精神を擦り削られて心臓発作で死んでいく ── そして横暴な者たちがその成果を横取りしていく。「born loser」という表現が、普通に存在する言語。それを観る者に思い出させるためにも、この歪んで壊れた音楽が必要だったのだろう。

そういえば、「born loser」を日本語字幕ではどう訳しているんだろうか。「生まれながらの敗者」なんてしっくりこないし、「負け犬」だってどこかほのかに香り高い。今だったら「ずっと負け組」で通用しそうだ。そう、この言語も、「負け組」なんて表現が普通に存在する言語になってしまった。

私は、もう25年以上も前に『ロング・グッドバイ』を映画館で見た。公開20周年だったか、それとも『ショート・カッツ(Short Cuts, 1993)』の公開に合わせてだったか、新しいプリントが打ち直されてアメリカ国内を巡回していたのを見た。《新しいプリント》の意味を知っている観客が多かったようで(その頃の私はよく分かっていなかった)、ちょっと早めに行ったのに前列右端の席しか残っていなかった。《新しいプリント》とは、ヴィルモス・ジグモンドの映像が、フラッシングのきめ細やかなテクスチャーが、余すことなく再現されている、ということだった。スターリング・ヘイデンが飲み込まれる、夜の太平洋の波をよく覚えている。吸い込まれそうになったからだ。ビーチのパーティのシーンでは、何重にも重なったカリフォルニアの陽光がこれ以上にないほど甘酸っぱい匂いを残した。次の日、私は首の右側の筋を痛めていた。

愚かかもしれないが、結局『ロング・グッドバイ』もBlurayを購入してしまった。さんざん迷った挙げ句、Arrow Academyが2015年にリリースしたものを取り寄せた。いくつかのサイトを巡って、このリージョンBのディスクが映像の点では最も期待できると思ったからだ。ひょっとしたら、《新しいプリント》の記憶を呼び覚ましてくれるかもしれないとさえ思った。もちろん、そんなことはなかった。この作品の色の階調を、消費者向けの商品で再現しようなんていうのが無理なのだろう。それでもまだ、シネフィル向けのブランドが『ロング・グッドバイ』の4Kマスターをつくったり、ビットレートを上げたりして、新製品を出している。

『ロング・グッドバイ』の《新しいプリント》を期待するのは、もう無理だろう。「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、現像という文化がここまで縮退してしまっているのだから、立ち上げ直すにしても相当にハードルが高い。カラーのプリントは退色・変色も意外と速いから、昔のプリントは「色」という観点からどうしても留保が入ってしまう。これが他の作品ならまだしも、『ロング・グッドバイ』だから観客が《新しいプリント》と聞いて集まってきたのだ。90年代に『ロング・グッドバイ』の《新しいプリント》がリリースされたとき、それを見た若い上映技師たちが感嘆するのを見て、古株の技師たちが「お前たちは1973年のテクニカラーのプリント見てないからね」と言ったという話がある。真偽の程は知らないが、そういう逸話がさもありなんと語られる作品なのだ。

それは、昔の話。私は『ロング・グッドバイ』をスマホでみてもいいと思う。見たいと思うなら、海外からリージョンBのBlurayや4KマスターのBlurayを取り寄せてもいい。DCPの上映があるんだったら、それもいいだろう。その人が自分に合っていると思う方法とメディアと場所で見ればいいと思う。

だが、「視聴の前提」をどうとらえるか、という問いだけは残ると思っている。そして、その問いは、これからもっと切実なものになると思っている。

これから、消費者用の映像メディアでも、色域や色深度が、もっと広げられるだろう。ボーン・デジタルの作品だけでなく、フィルムで製作された作品でも、繊細な表現を再現する技術が追求され続けるだろう。AIで彩色したり、アップコンバートしたりしたものを「リアルになった」「よくなった」と言って知らず知らずのうちに鑑賞するようになるかもしれない。だが、それぞれの技術において、いったい何が起きたのか、それはどんなプロセスだったのか、どんなデータをもとにしたのか、そして、それは自分が見たいと思うことにかなっているのか、それを少しでも紐解かない限り、ただ外界からの刺激に反応しているに過ぎなくなってしまう。AIが『聖林ホテル』の「ハリウッド万歳」の音の歪みを《修正》するようなこともあるかもしれない。そんな技術が広範に普及すると、「ハリウッド万歳」が歪んだ録音だったということさえ忘れられるかもしれない。当時音質の向上に苦しんでいたエンジニアたちやスタッフたちの存在は、さらに遠景に退いていき、見えなくなっていく。実際、『市民ケーン』のメディア・ノイズが低減されているせいで、当時メディア・ノイズを低減するために様々な技術を開発したエンジニアたちの存在は見えにくくなっている。

そうなると、『ロング・グッドバイ』のラストの「ハリウッド万歳」の意味も喪失してしまうかもしれない。唐突に現れるあの割れた音の、過去を糖衣に包んでノスタルジアに浸すことへの拒否が、無効になってしまうかもしれない。「any shopgirl can be a top girl, if she pleases the tired businessman」という歌詞が鮮明に聞こえてしまったら、私達の社会のインチキ具合がいかに根深いかというやるせなさも湧いてこないだろう。

『ロング・グッドバイ(The Long Goodbye, 1973)』

Notes

1)^ ちなみに、アメリカの映画批評で《フィルム・ノワール》という語彙の使用を決定的にしたポール・シュレーダーの論文は、この映画の前年に発表されたばかりだった。『ロング・グッドバイ』は《フィルム・ノワール》という批評的なコンテクストがまだ未熟な状態で登場した作品だ。

References

[1]^ "A Century of Sound: The History of Sound in Motion Pictures, The Sound of Movies: 1933 - 1975."

[2]^ E. W. Kellogg, "A Comparison of Variable-Density and Variable-Width Systems," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 25, no. 3, pp. 203–226, Sep. 1935, doi: 10.5594/J07413.

[3]^ S. Barbas, "The First Lady of Hollywood: A Biography of Louella Parsons." University of California Press, 2005.

[4]^ P. G. Furia, P. of C. W. P. Furia, P. Furia, and M. L. Lasser, "America’s Songs: The Stories Behind the Songs of Broadway, Hollywood, and Tin Pan Alley." Taylor & Francis, 2006.

[5]^ J. O. Aalberg and J. G. Stewart, "Application of Non-Linear Volume Characteristics to Dialog Recording," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 31, no. 3, pp. 248–255, 1938.

[6]^ C. L. Lootens, D. J. Bloomberg, and M. Rettinger, "A Motion Picture Dubbing and Scoring Stage," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 32, no. 4, pp. 357–380, Apr. 1939, doi: 10.5594/J16557.