自分からの逃走

バーバラ・デミングという名前を聞いてピンとくる人は決して多くないだろう。1960年代後半のベトナム戦争と反戦市民運動について興味がある人であれば、1966年にハノイで非暴力を訴えてデモをした6人組のアメリカ人の一人だったことを覚えているかもしれない。あるいはロバート・スクラーの映画史の著作に、彼女の名前が数回登場するのをぼんやりと記憶している方もいるかもしれない。映画批評の歴史の中で極めて重要な位置を占める、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーへ From Caligari to Hitler(1947)」の「緒言 Preface」に、バーバラ・デミングへの謝辞が述べられているのを見て、いったい誰だろうと思った人もいるかもしれない。

バーバラ・デミング(Barbara Deming, 1917 - 1984)は、非暴力主義を唱えた平和運動活動家、人権活動家、フェミニストである。デミングが亡くなった時のニューヨーク・タイムズ紙は以下のように伝えている。

作家、公民権運動家、平和運動家のバーバラ・デミングが、木曜日、フロリダ州シュガーローフ・キーの自宅で、癌のため亡くなった。67歳だった。

デミング氏は平和運動雑誌「リベレーション」の副編集長だった。また、彼女は映画批評家、短編小説家でもあり、短編小説集、詩集、エッセイ集などを出版している。

デミング氏が1966年に出版した「プリズン・ノート(Prison Notes)」は、彼女が公民権デモに参加して逮捕されたのち、2か月間にわたりジョージア州の刑務所に収監された経験をつづっている。

New York Times [1]

マイアミ・ヘラルド紙のおくやみ欄はもう少し詳しく彼女の経歴を紹介している。

デミングは1917年7月21日、ニューヨーク市生まれ、1938年にベニントン・カレッジを卒業。国会図書館のフィルム・ライブラリーに勤務し、「ザ・ネイション」誌に映画批評を寄稿していた。40歳の時にマハトマ・ガンジーの著作に触れ、平和主義者として活動を始めた。1950年代に武装配備に反対するWar Resisters Leagueの運動に関与するようになり、公民権運動にもかかわるようになった。

ベトナム反戦運動のなかで、女性の人権運動に参加するようになった。それより20年前の1953年にレズビアンであることを公表している。彼女は、16歳のころからレズビアンであることに気づいていたという。「子供をもうけることだけが、私たちのセクシャリティの理由ではない」と彼女は発言している。

The Miami Herald [2]

彼女が1966年に強行したハノイでのベトナム反戦デモは、当時の新聞には極めて嘲笑的に書きたてられた。サンフランシスコ・エグザミナー紙のガイ・ライト記者はこのデモの参加者たちを「幕間喜劇」「現実離れ」「地球外から来た妖精」などと愚弄して喜んでいた[3]。他人と違うことをすると、大都市の有力紙で笑いものにされるような、そんな時代だったのである。

デミングは、1969年にGrossman Publishersから“Running Away from Myself”と題された映画批評の本を出版している。これは1940年代のハリウッド映画を俯瞰し、そこに現れている夢のかたちの分析を試みたもので、副題も“A Dream Portrait of America Drawn from the Films of the 40’s”となっている。デミングがここで展開する議論は、当時の映画批評の潮流の中では明らかに周縁に属しており、異端であり、同時代の多くの読者にとってはおそらく難解だったに違いない。難解と言っても、晦渋とか、迂遠とか、衒学的といったものではない。彼女の映画批評と手法と解釈は、第二次世界大戦後のアメリカ社会になじまない性質のように思われるのだ。

Barbara Deming “Running Away from Myself”

当時のアメリカの映画批評は男性に支配されており、彼らの多くが、大都市の新聞、あるいは雑誌に新作映画のコラムを寄せるのが最も一般的な映画批評の形態であった。ロサンゼルス・タイムズ紙のフィリップ・K・シェナー、ニューヨーク・ポスト紙のアーチャー・ウィンストン、ニューヨーク・タイムズ紙のボズリー・クラウザーなどが1940年代から60年代のアメリカ映画批評の《最も信頼できる書き手》であった。また、ジェームズ・エイジー、マニー・ファーバー、アンドリュー・サリスといった面々が、新聞やラジオでの新作公開映画批評から、監督を軸にした批評へ大きな変化をもたらした。

だが、バーバラ・デミングのこの著作は、新作公開映画の批評を集めたものでもなければ、映画スターや監督を軸に論じたものでもない。デミングの狙いは、一つ一つの作品の大衆性、社会的意義、芸術的評価や、監督の作品製作歴の評価といったところにはない。彼女が解き明かそうとしているのは、ある時代 ───ここでは1940年代である─── の一連の映画群のなかに立ち現れている、人々がみた「夢」の性質である。

この本は、入場券売り場で私達が買っている夢を解読し、映画館で私達が経験する(登場人物たちとの)同一化の本質 ───私達の脳裏に焼き付いて離れない、しかし私達が気づくことがなく、認めることもなく、にも関わらず私達を悩ます、私達が置かれた状況の映像イメージをえぐり出そうとするものである。

Running Away from Myself

デミングは、この思索を個々の作品の分析を通してではなく、複数の作品を俯瞰して焙り出そうとする。

映画は盲目な安穏を提供するものであるため、このような分析を個々の映画に対してしようとするのは困難だ。だが、いくつかの映画を合わせて見たとき、この秘密が明らかになる。映画を次から次へとじっと見ていれば、各々の映画の独特な側面に気をとらわれることなく、それらの映画全ての底に流れる、ある種の執着じみたパターンが浮かび上がってくるだろう。

Running Away from Myself

彼女は、この執着じみたパターンとして浮かび上がってきた、8つのカテゴリについて分析している。これらのカテゴリには、それぞれの章があてられている。例えば、第二章は“I’m not fighting for anything any more — except myself! (War Hero)”と題されている。第二次世界大戦中に製作された数多くの戦争映画、すなわち《戦争の英雄》の物語を通して、当時のアメリカ映画特有の英雄像を構築しようとしているのだ。デミングは『カサブランカ(Casablanca, 1942)』、『渡洋爆撃隊(Passage to Marseille, 1944)』、『逃亡者(The Imposter, 1944)』、『ミスター・ラッキー(Mr. Lucky, 1943)』といった作品を取り上げて詳細に分析しながら(『カサブランカ』には相当な紙幅を割いている)、描かれている《英雄》たちが皆「俺が戦うのは自分のためだけだ」という虚無的な主張をする点に注目している。

男の(祖国への)忠誠心が本物かどうかがドラマチックに問われ、そして彼の忠誠が証明され、男は颯爽と戦場に向かう ─── そんな戦争映画なら、いくらでも挙げることができる。

Running Away from Myself

この男たちのラストシーンは荒涼としたものだ。「自滅と寒々しいストイックさのあいだで揺らいでいる」とデミングはくくっている。『カサブランカ』のラストのリックのセリフを「自己犠牲の華麗なあや(アンドリュー・サリス)」と呼んだ、当時の主流映画批評家たちとは明らかに一線を画している。

Barbara Deming “Running Away from Myself” 目次

記憶に頼らない

この著作、“Running Away from Myself”は、出版は1969年だが、実は1960年代に書かれたものではない。元々は、デミングが1950年に書きあげた“A Long Way from Home: Some Film Nightmares from the Forties”がオリジナルである。オリジナルは書籍の形で出版することができず、“City Lights”という雑誌で連載を開始したが、雑誌自体が資金繰りが苦しくなり廃刊となった。それから20年近く経過したのち、デミングが原稿を読み直し、20年前の映画批評が、ベトナム戦争に突入した当時のアメリカの世相にとって、より近接し逼迫した問題を提示しているように感じたのだという。

前掲のマイアミ・ヘラルド紙の記事にもあるが、デミングは1940年代に国会図書館のフィルム・ライブラリーに勤務していた。彼女は「国会図書館フィルムプロジェクト(Library of Congress Film Project)』の4人のアナリストのうちの1人だった1)。このプロジェクトは1942年から1945年にかけて行われたもので、アメリカ国内で公開される映画(ニュース映画、カートゥーンなども含む)を網羅的に調査し、アーカイブに保存する作品を選出することを目的としていた。国会図書館のルーサー・H・エヴァンスによれば、作品の選出は「芸術性」の見地からではなく、「同時代の生活や嗜好、人々の好みを忠実に反映したもの」を対象としたという(記事末尾参照)[4]。このプロジェクトのアナリストとして、デミングは、公開されたハリウッドの長編映画を数多く見ている。1942年から44年は、それぞれ公開された本数の4分の1を、1945年から48年までは、それより少ない本数だが、公開されているシノプシスをもとに選別した作品を見たと述べている。そして、 ───この点が極めて重要なのだが─── デミングは分析をする際に、鑑賞中に速記2)で書き付けたノートをもとにしている。彼女は記憶に頼らず、場面やセリフを丁寧にメモしたものを批評の土台にしているのだ。同時代の他の批評に比べて、彼女の批評は細部まで非常にヴィヴィッドで正確なのである。

現代のように、自らが批評しようとする対象の作品を、DVDやBlurayで繰り返し確認しながら分析することが当たり前になってしまうと、デミングのアプローチを特別なものと感じないかもしれない。しかし、1940年代はおろか、1970年代まで、ハリウッドの昔の映画にアクセスすることは容易ではなかった。たしかに時折テレビで放映されるかもしれないが、作品を選べるわけではないし、TV用の編集は作品の完全性を失わせていた。一部の著名な批評家や、各社のライブラリにアクセスする術を持っている者を除いて、鑑賞後に残したメモや記憶に頼らざるをえないのが実情だった。ジェームズ・エイジーは、『カサブランカ』についての評のなかで、ぼんやりと登場人物たちを並べ、セリフも忘れていたのを友人に教えてもらった、と告白し、楽しい(“fun”)映画だったと綴っている。これが映画批評として出版されていることじたいが理解に苦しむのだが(“Agee On Film”は今でもペーパーバックで入手できる)、デミングが“Running Away from Myself”を出版した当時は、エイジーのような姿勢が特別奇異だったわけではなかった。

一方、デミングは『カサブランカ』のストーリーを10ページにわたって詳しく記している。今の批評の基準からすると、ここまでストーリーを追って記述する必要はないかもしれない。しかし、1960年代には映画にアクセスできない読者のためにも必要だったのだ。そして、このストーリーの起伏と細部が、デミングの論点を支持するうえで重要な役割を果たす。

デミングのストーリーやセリフを正確に把握するアプローチが、新鮮でユニークな視点を与えている例として、第5章の“Don’t You Know Me? (some restless ones)”を見てみよう。この章でデミングはアイデンティティを失う男たちの物語として、『追跡(The Chase, 1946)』、『孤独な心(None But the Lonely Heart, 1944)』、『素晴らしき哉、人生!(It’s a Wonderful Life, 1946)』、『スカーレット・ストリート(Scarlet Street, 1946)』、『ノラ・プレンティス(Nora Prentiss, 1946)』を挙げて論じている。『素晴らしき哉、人生!』では、ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュワート)は天使によって「自分がいない世界」に連れて行かれる。デミングは、ジョージ・ベイリーが、天使が説く「自分がいかに世界を変えてきたか」という論点を吸収せず、「親しい人たちが誰も彼のことを認識しない」という、この世界の前提になっている状況にひたすら苦悶している点を指摘している。これは多くの論者が「ジョージ・ベイリーがいない世界」の仮構性や神話性、あるいはその反転を論じる傾向にあるのとは、きわめて対照的だ。さらに、デミングは、ジョージがひらすら「僕だよ!」といって母親や妻を説得しようとする様子を、『スカーレット・ストリート』や『ノラ・プレンティス』3)の主人公たちの物語に重ねている。現在の批評では『スカーレット・ストリート』と『ノラ・プレンティス』は《フィルム・ノワール》という範疇に押し込められ、ファム・ファタールの存在を絡めた議論が出発点となり、『素晴らしき哉、人生!』と同じ平面を出発点として批評されることは少ない。男性のアイデンティティ失効の物語として『素晴らしき哉、人生!』との接点を見出し、なぜそれが同時代的な《夢》になりえたかを問うというデミングのアプローチは、むしろ新鮮な遠近感をもたらしてくれる。

デミングは、1970年代に興隆してきたフェミニズム映画批評のはるか以前に、極めて網羅的な方法でハリウッド映画を分析した女性だった。1960年代に辛口の批評で登場してきたポーリーン・ケールよりもさらに前の時代だ。それは彼女が国会図書館に在籍していた時代に、推し進められていた文化政策と関係があるのかもしれない。同時期にニューヨークの近代美術館で映画研究にたずさわっていたジークフリード・クラカウアーが「カリガリからヒトラーへ」でデミングに謝辞を述べ、デミングも“Running Away from Myself”でクラカウアーに謝辞を述べているところからみても、お互いに刺激しあった間柄であったのではないかと推測できる。だが、批評のアプローチはかなり相違する。クラカウアーは「カリガリからヒトラーへ」で、黎明期からワイマール期までのドイツ映画とドイツという国家の関係を論じようとした。

ある国家の映画は、その心性 mentality を他の芸術よりもより直接的に反映している

カリガリからヒトラーへ

デミングの“Running Away from Myself”には、「アメリカの社会問題」について言及している箇所は一切ない。1967年に書かれた緒言 Foreword に、わずかに「ベトナム戦争に突入したアメリカを思い起こさせる」と書かれているに過ぎない。全体を通して、映画のなかの物語のみを論じ、スクリーンの外の事柄は、監督や製作についてさえ言及していない4)

デミングの“Running Away from Myself”は絶版になったままである。この映画批評を今の基準で読むと、シノプシスの記述の冗長さや、後年現れたジャンル映画批評や作家批評、フェミニズム批評理論の不在などが、もどかしく感じられるかもしれない。だが、ハンフリー・ボガートが演ずる役に1ミクロンのロマンも感じておらず、まるで外科手術のように彼のキャラクターを摘出していく手さばきや、数々の映画がハッピーエンドで締めくくられていても、その映画が映し出した暗い世界を忘れずに暴き出している点など、そのような批評が1940年代に、いや、1967年でさえ存在していたということは、本当に驚きだ。1940年代のハリウッド映画を考えるうえでは、この本は一度は紐解く必要があるだろう。

Barbara Deming “Running Away from Myself”

Notes

1)^ 他の3人はライアン・リチェター Liane Richeter、ノーバート・ラスク Norbert Lusk、フィリップ・ハーツング Philip Hartung。ノーバート・ラスクはサイレント映画期にハリウッドで広報や脚本を担当したのち、ニューヨーク・モーニング・テレグラフ紙で映画批評を担当、ニュー・ムーヴィーズ誌の編集などにもたずさわった。フィリップ・ハーツングはコモンウィール誌の映画批評を35年間、そのほかにも数多くの新聞、雑誌で映画批評を担当した。

2)^ 20世紀前半、速記は女性のオフィスワーカーにとって必須のスキルの一つだった。1930年において、速記・タイプができる人のうち、女性の比率は96%にも上っていた[5]。デミングが「女性のものとされていた」速記のスキルを活かして、当時の男性の映画批評(e.g. ジェームズ・エイジー)には見られない、そして目指されてもいなかった、「記憶からではなく、記録から」の批評を編み出した点は強調しておきたい。

3)^ それでも、バーバラ・デミングの記述も細部において誤りが散見される。『ノラ・プレンティス』の主人公の名前を「トレント」と記載している(正しくはタルボット)。

4)^ ただし、「国会図書館フィルムプロジェクト」当時にデミングが発表した論文[6]は、クラカウアーの影響が色濃く見られ、アメリカ社会との相関関係を模索している様子がうかがえる。また、これは国会図書館、MoMA、特にアイリス・バリーの方針も大きく影響しているだろう[7]

追記:米国国会図書館が選出した映画作品(1944年)

国会図書館フィルムプロジェクトが、保存のために選出した映画作品(1944年分)は、長編映画が45本、短編映画が48本、ニュース映画が104本だった[4]

選出された長編映画は以下の通り。*が付してある作品は、その中でも特に優れたものとして挙げられた。

An American Romance

And the Angels Sing

Arsenic and Old Lace

Attack

The Battle of Britain

The Battle of China

The Battle of San Pietro

Colonel Blimp

Dangerous Journey

Double Indemnity

The Enchanted Cottage

The Fighting Lady

Forty-eight Hours

Going My Way *

Hail the Conquering Hero

Heavenly Days

The Hitler Gang

Hymn of the Nations

I’ll Be Seeing You

Main Street After Dark

Man From Frisco

The Man Who Walked Alone

Meet Me in St. Louis *

Murder, My Sweet

National Velvet *

The Negro Soldier

None But the Lonely Heart *

Nothing But Trouble

Princess and the Pirate

Reckless Age

Salute To France

The Seventh Cross

Since You Went Away

Tall in the Saddle

Thirty Seconds Over Tokyo

The Three Caballeros

Thunder Rock

Tomorrow the World

A Tree Grows in Brooklyn *

Two Girls and the Sailor *

War Comes to America (Part 1)

Welcome to Britain

Western Approaches

Wilson *

Yellow Rose of Texas

References

[1]^ "Barbara Deming," The New York Times: 1, New York, p. 23, Aug. 04, 1984.

[2]^ M. Del Marco, "Barbara Deming, 68, feminist and peace activist," The Miami Herald, Miami, Florida, p. 4D, Aug. 04, 1984.

[3]^ G. Wright, "U. S. Vietniks Get Saigon Bum’s Rush," The San Francisco Examiner, San Francisco, p. 2, Apr. 22, 1966.

[4]^ R. E. M., "Library of Congress Picks 45 Features for Permanent Files," Star Tribune, Minneapolis, Minnesota, p. 30, Jun. 17, 1945.

[5]^ A. Kwolek-Folland, "Engendering Business: Men and Women in the Corporate Office, 1870-1930." Baltimore : Johns Hopkins University Press, 1994.

[6]^ B. Deming, "The Library of Congress Film Project: Exposition of a Method," Quarterly Journal of Current Acquisitions, vol. 2, no. 1, pp. 3–36, 1944, Available: https://www.jstor.org/stable/29780359

[7]^ J. Jones, "The Library of Congress Film Project: Film Collecting and a United State(s) of Mind," The Moving Image, vol. 6, no. 2, pp. 30–51, 2006, doi: 10.1353/mov.2007.0008.