最後に取り上げるのは、《フィルム・ノワール》が登場してくる背景についての議論である。とくにここでは技術的背景について述べたい。映像と音響に関する技術 technology は、映画だけを中心に発展したわけではないが、映画の製作と配給の仕組みにおいて重要な役割を果たしてきた。特にハリウッドのスタジオが興行目的で製作した映画(長編映画だけでなく、短編、ドキュメンタリー、ニュース映画、カートゥーンも含む)は、映像技術全体の研究開発と生産普及に関わる部分と、ハリウッド独自のニーズに基づく研究開発や標準化に関わる部分との両方に深く依存している。それらすべてを網羅することなど到底できないし、また、それは現在の映画史研究でも重要な課題だろう。ここでは、《フィルム・ノワール》が登場する背景として議論されてきた技術史を見通しながら、その内容を確認していくことにする。

『君去りし後(Since You Went Away, 1944)』
監督:ジョン・クロムウェル
撮影:スタンリー・コルティーズ

フィルム・ノワールのテクノロジー論

ハリウッドは、1940年代も、今の2020年代も、テクノロジーに対する姿勢は変わらない。彼らは、新しく生まれたテクノロジーの可能性を最大限に探索したうえで、いかに観客に新鮮な体験を提供して映画をヒットさせるか、という命題に取り組もうとする。それは、ある一人の映画監督、プロデューサー、あるいは一つの映画作品が、突然それまでの難題を解決して達成するのではなく、様々なところで微視的に試行錯誤が重ねられていたものが、ある作品で集大成として陽の目を見る、というかたちを取ることが多い。ハリウッドの製作体制には、極めてテクノロジー指向が強い側面があり、それは(今となってはその多くがロストテクノロジーになってしまったためわかりにくいが)1910年代でも、1940年代でも同じであった。

《フィルム・ノワール》に関わったテクノロジー論は、その大部分がシネマトグラフィーについてのものである。おそらく以下のような記述は標準的ではないだろうか。

以前は夜のシーンを、昼間に低露出で撮影していた(デイ・フォー・ナイト)が、感度の高いフィルムが開発され、夜に撮影しても(ナイト・フォー・ナイト)良い結果が得られるようになった。レンズの分野における発明のおかげで、照明に柔軟性を持たせることができるようになった。以前は、単一光源を使うとカメラを飽和させてしまって、映像がピンボケしてしまうというおそれがあり、そのため、セット全体に照明を当てるようにしていたのだ。新しいレンズの場合、この心配はない。 夜の室内のシーンはよりリアルでパワフルなものになった。カメラは軽量化され、移動撮影も楽になり(長回しも多くなった)様々な角度(ローアングルや垂直から傾けて撮る「ダッチ・ティルト」)で、変わった場所や狭い場所(閉所恐怖の感覚)で撮影できるようになった。前後だけでなく左右にもスムーズに動く車輪付きのカメラ支持台「クラブ・ドリー」が開発されて、カメラの動きがよりなめらかになった。

Eddie Robson [1]

概論としては理解しやすいし、特に間違った記述ではない。もちろん、具体性には乏しく、もう一歩踏み込んだ議論を望む読者には物足りないだろう。だが、「一歩踏み込む」と突然おかしなことになってしまう場合が多いのだ。

ノワールの非伝統的視覚スタイルは、技術開発、特に高感度で粒状性を抑えたフィルムが広範に使用され、照明のレベルを下げても撮影できるようになったことで可能になった。新しい種類のフレネルレンズ、そして透過効率を改善した新しいレンズ・コーティングの技術が登場し、大口径のレンズを強力な光源のそばに置いてもフォーカスを失うことなく撮影できるようになった。

Andrew Spicer [2]

私の翻訳がおかしいのでは、と思われる方は原文(p.48)をあたってみてほしい。フィルム・ノワール本に頻繁に登場するトンデモ技術論を見慣れた私でも、これにはさすがに目を疑ったのだが、実際にこのように書かれている。この著者は、ここでパトリック・オグルのディープ・フォーカスの技術の歴史に関する論文[3]を引用しているのだが、あの極めて精緻で冷静に記述された論文を、どう引用したらこうなるのか理解できない。

こういったひと目で分かる誤謬は、遭遇してもなんとか心のなかで修正することが可能だ。問題は、事実を確認する術がすぐには手元になく、その記述の信憑性をどうやって判断するべきか迷ってしまうような場合である。先年も、ポール・シュレーダーがなんの根拠も示さずに「『市民ケーン』ではスプリット・ディオプターが使用された」と言い出して[4]、1940年に映画撮影用レンズに装着できるスプリット・ディオプターが存在したのか、存在したとすれば、それをグレッグ・トーランドは使用したのか、という、ほとんど確認しようのないことを悩む羽目になった。できる限りの調査をしてみたが、スプリット・ディオプターが1940年代のハリウッドに存在していた形跡はないし、トーランドが『市民ケーン』に使用した装備一覧にもそれらしきものは入っていなかった。もし使ったのなら、あの自慢屋トーランドがあちこちで吹き回らないはずがないのだが、そういった自慢話も見当たらない。

問題は、このような記述に遭遇したとき、その誤りに気づいた人の大半が「ああ・・・・まあ、いいや」となってしまうことだろう。そして誤った記述が引用され、おかしな議論が再生産されていく。

では、どこで技術的に正確で有益な情報を得ることができるのだろうか。映画の技術史に関しての書籍は決して多くない。概説的で読みやすいものとしては、カルロ・モンタナーロの“Silver Screen to Digital”[5]がある。技術の各分野についてかなり詳細に論じているのはレニー・リプトンの“The Cinema in Flux”[6]で、幻灯機からTV、フィルムからデジタルまでの技術を網羅しており、リファレンスとしても非常に使いやすい。レイモンド・フィールディングが編纂した“A Technological History of Motion Pictures and Television”は、20世紀前半の映画・テレビ技術に関わる一次資料を集成したもので、技術開発の側面をより直接的に知るには絶好の資料であろう[7]。だが、やはり当時の技術開発の状況を知るには、同時代に書かれたものが最も信頼できるし、状況も把握しやすい。米国映画テレビ技術者協会(Society of Motion Pictures and Television Engineers, SMPTE)の前身である米国映画技術者協会(Society of Motion Picture Engineers, SMPE)の機関誌[8], [9]、そして全米撮影監督協会(American Society of Cinematographers, A.S.C.)の機関誌[10]は、その大部分がInternet Archiveで閲覧できる。これらの機関誌はサイレント期からの技術資料として極めて重要なものである。

American Cinematographer誌に掲載されたデュポンとコダックの広告
デュポンの広告(1946年10月号掲載)は、デュポンのネガフィルムSUPERIOR 2が「ハイキーにもローキーにも使える」点を強調している。
一方、コダックの広告(1946年11月号掲載)は、フィルム・ノワールを彷彿とさせるシーンが印象的。カメラマンの仕事を最大限に引き出すためには、コダックのSUPER XとSUPER XXが最適だと宣伝している。

名前を忘れられた人々

映画批評にしばしば見られる映像技術に対する不誠実な姿勢、この不愉快な状況の裏面に、《作家主義批評》に代表されるような、歴史に名を残した一握りの人を過度に称揚する、個人崇拝にも近い属人的な史観があるのではないかと感じることがある。

私は、映画批評においては「名前を忘れられた人々」が、いかに映画製作の根幹を支えてきたか、ということを常に意識しておきたいと思っている。ディープ・フォーカスやローキー照明での撮影を可能にしたレンズ・コーティングのテクノロジーは、グレッグ・トーランドが発明したものでもなんでもない。カリフォルニア工科大学のジョン・D・ストロング教授が開発した蒸着による金属膜成膜法を光学レンズに応用したのが始まりで、それを映画撮影で使用できるのかどうか、パラマウントや20世紀フォックスなどにいた技術者たちが地道にテストを繰り返して、導入に至ったものだ。『ローラ殺人事件』の、あの印象的なピアノの音は、別にオットー・プレミンジャーが作ったわけではない。20世紀フォックスの作曲家とサウンドエンジニアたちが打鍵のインパクトを取り除いて音を分解するという、「サンプリング」の試みによって編み出されたものだ。

もちろん、映画監督のヴィジョンが全く意味がないものだというつもりはない。むしろ、非常に大きなウェイトを占めるのは明らかだ。だが、ある作品が、あるかたちにおさまるのは、映画監督の優れた能力が、映画産業の骨格に支えられているからこそなのではないか。

《フィルム・ノワール》をめぐる多くの批評に申し訳程度に言及される技術的な側面も、多くの人々が関わって、それまでできなかったことを可能にした結果だ。以前、《フィルム・ノワール》のスタイルに関する技術革新、すなわち高感度フィルム、ハイスピード・レンズ、そして新しい照明技術について論じた。そこでも指摘したが、ハリウッド全体での「標準化」が極めて重要な役割を果たしている。撮影時における露出計(メーター)の使用と、現像工程における現像液の検査・分析によって、仕上がってくるプリントの精度が格段に上がったのだ。現像プロセスで「どう仕上がるかやってみないとわからない」という不確かさの要素が減って、撮影監督たちは今まで以上に難しい映像に挑戦できるようになった。プロセスの「標準化」こそ、より効果的で、印象的で、多くの観客の記憶に残る映像を生み出すために必要なものだった。「標準化」は「画一化」の対極にある。

写真技術の標準化

この「標準化」が、いかに1930~40年代のハリウッドにとってクリティカルなプロセスだったかを、“Journal of Society of Motion Picture Engineers” や “American Cinematographer”などの当時の資料にしながらもう少し探ってみよう。

私が述べているのは次のようなことなのです。照明、露出、現像処理を完全に標準化するという、一貫した写真技術によって、撮影監督は自らの仕事の芸術的な側面に全精力を注ぐことができるようになるのです。ネガ濃度とかプリント値とかに代表される機械的な細々したことは自ずから解決され、撮影が途中で中断されても、そして中断された期間が10日間であろうと、10ヶ月であろうと、最初に撮影したシーンと最後に撮影したシーン、そしてそのあいだに撮影したすべてのシーンが「一致している」と自信をもって言えるのです。

ダニエル・B・クラーク[11]link

これは、1943年に20世紀フォックスで撮影部の部長をつとめていたダニエル・B・クラークの言葉である。当時、20世紀フォックスは撮影監督全員に露出計の使用を義務付け[12]、テストからプリントまでのすべての工程を一貫化し、品質管理体制を整えていた。

フィルムの処理工程の標準化は1930年代に急速に進んだ。きっかけはトーキーの導入である。音声トラックをフィルムに濃淡で記録する「可変密度方式 Variable Density Recording」は、録音と現像の条件を統一しないと、音量や音質特性がシーンや現像によってばらついてしまうのだ[13] 。コダックやデュポンの技術者たちが、フィルムの種類と現像液の特性変化について、そのメカニズムとネガやプリントの仕上がりに及ぼす影響を詳細に研究、発表していた(例えば[14])。現像タンク内での薬液の分布の問題、使用とともに現像液の能力が変化する問題、そしてフィルムのブランドが増えるにつれて、ブランドのあいだでの現像適性の違いなどの問題が表面化してきたのだ。ハリウッドのメジャースタジオは社内にカメラネガとプリント用の現像所をもっていたが、そこで現像液の検査が定期的に行われるようになった。さらに議論されるようになったのが「ネガテスト法」か「時間温度法」かという問題だった[15], [16]。ネガテスト法は、テスト撮影をしたものを現像して、その仕上がり(ガンマ値)をもとに、本番のネガの現像条件を決める方法である。一方、時間温度法は、現像時間と現像液の温度を一定に保って現像する方法である。一見、ネガテスト法のほうが、よりラティテュードの広い、芸術的な冒険ができるように思われるかもしれないが、実際はまったく逆であった。

(ネガテスト法では)カメラマンがわざとローキーで撮っているのか、ハイキーで撮っているのか、そんなことは関係ない。テストの結果、「これが正しい」と現像所が考えた現像しかしてもらえない。

ダニエル・B・クラーク[11]

すなわち、ネガテスト法では、現像所の担当者が仕上がりをきめてしまう。撮影監督が夜の恐ろしい場面をローキーで効果的に作り出そうとしたとしても、ストーリーを知らない現像所の担当者に「露出不足」と判断され、カメラマンの失敗を「救済してやろう」と「明るく」現像されてしまうのである。実際に現像所はカメラマンたちの失敗を救済してきたという歴史もあるために、この依存関係は長く維持されてしまっていた。レニー・リプトンは、トーキーの登場とともにネガテスト法から時間温度法に移行したと記述しているが[6]、実際には1930年代を通してネガテスト法はしぶとく採用されていた[17]。パラマウントなど大手のスタジオの社内現像所が完全に転換した後も、中小の現像所はネガテスト法の良さを主張している[16]。それが変換点を迎えたのが1940年代初頭、この頃にハリウッド全体での標準化が一気に進んだようである[18]

ダニエル・B・クラーク
レンズ校正測定装置のプロトタイプを使ってレンズの透過率を測定している

映画撮影技術の一貫性 consistency にこだわった、20世紀フォックスの撮影部長だったダニエル・B・クラークは、カメラレンズの校正方法を確立したことでも知られる。今の私たちは、カメラメーカー、レンズメーカーが公称している「f値」を疑うことなどないが、クラークはスタジオで使用する300以上のカメラレンズのすべての透過率を測定して、それらの特性を正確に把握した。それらのなかにはメーカーの公称f値と大きくかけ離れたものもあったという[19]。JSMPEの1947年8月号は、レンズの校正方法の特集が組まれている。そのなかには政府の標準制定機関であるアメリカ国立標準技術研究所の論文も掲載されており[20]、単に映画会社だけの問題ではなく、産業を支える科学技術の問題としてとらえられていたことがわかる。

ここから見えてくるのは、「天才的な職人がいればいい絵が撮れる」といった考え方ではなく、「きちんとした知識と経験があれば、どんなカメラマンでも作品に求められる絵が撮れる」ようにするための基盤をつくるという姿勢である。だから、1940年代から60年代にかけて、ジョン・オルトンからベンジャミン・H・クラインまで、ガイ・ロウからニコラス・ムスラカまで、ハリウッドの多くの撮影監督たちが、「容赦ないシニカルさに満ちた(ポール・シュレーダー)」物語 ───それを後世の我々は《フィルム・ノワール》と呼んでいるが─── に見事にマッチした様々な映像を生みだすことが可能になったのだ。このシリーズの第3部で紹介したマーク・ヴェルネのような批評がいかに的外れかが分かるだろう。「フィルム・ノワール以前にもローキーの視覚的(ヴィジュアル)スタイルはハリウッドにあった」というのは、驚くべきことでもなんでもない。どこの国でも、どの時代にも、照明を用いて特殊な視覚的効果を作り出そうとして、それに成功した者たちはいた。だが、ここで問題にされているのは一貫性(・・・)だ。1940年代から60年代のハリウッド映画のなかである種の陰鬱なテーマの物語が語られるときに、ローキーやキアロスクーロのような視覚的(ヴィジュアル)スタイルが一貫して(・・・・)存在している、ということを多くの人が認知するからこそ、《フィルム・ノワール》と呼ばれるようになったのだ。「フィルム・ノワールというのは、批評のなかにしか存在しない概念だ」という発言は、一見、批評の独善性を批判しているように聞こえるが、結局は「なぜ鑑賞者はある時期のある場所で製作された極めて多数の映画に共通点を見出しているのか」という問いを無視した、批評を語る者の傲慢な思い上がりでしかない。問題にするべきは、なぜ一貫した基盤を準備しようとしたかという動機であり、そのプロセスであり、そしてその影響である。

『群狼の街(The Sound of Fury, a.k.a. Try and Get Me!, 1950)』
監督:サイ・エンドフィールド
撮影:ガイ・ロウ

フィルム・ノワールの時代を知る

ここでは、撮影から現像までの標準化という技術革新による視覚的スタイルの変化にのみ言及したが、それは映画製作のありとあらゆる側面に当てはまる。そういった側面をカバーする書籍は2000年以降、特に増えているように思う。その一部分を紹介したい。

1940年代のハリウッドに起こった語り(ナラティブ)の変化については、デヴィッド・ボードウェルの“Reinventing Hollywood: How 1940s Filmmakers Changed Movie Storytelling [21]”が詳細に論じている。音響技術の変革についてはUCLAの“A Century of Sound: The History of Sound in Motion Pictures, The Sound of Movies: 1933 - 1975 [22]”などが良い参照点になるだろう。製作・配給の変遷については、トーマス・シャッツの著作がハリウッドの映画産業全体を俯瞰する点で読みやすく[23]、特にブロック=ブッキングの経済的背景と分析については2000年以降に発表されたセジウィックら[24]とヴェイニー[25]の著作が従来のハリウッド映画史観を見直すものとして極めて重要だ。ベイジンジャーのスターシステムについての著作[26]は、1930年代からの流れと第二次世界大戦による変化を具体的な例を通して論じており、非常に面白い。第二次世界大戦がハリウッドに及ぼした影響と、それがいかに《フィルム・ノワール》を形作っていったかを考える上では、やはりシェリ・チネン・ビーゼンの著作[27]は外せない。ロケーション撮影という観点から見た映画史としてはグライチらの著作[28]やパルマーの著作がある[29]

それぞれのスタジオの状況を把握するうえでは、RKO[30], [31]、20世紀フォックス[32], [33]、ユニバーサル[34], [35]、コロンビア[36], [37]、ユナイテッド・アーチスツ[38], [39]など各社の歴史についての書籍も多く出版されている。

ブラックリストをめぐる状況に関する書籍は数多く出版されているので、あえてここでは挙げないが、ブラックリストされた人々のインタビューは、読んでいても非常に面白く、また当時の世相を知る上でも参考になる。最も網羅的なインタビュー集は“Tender Comrades”[40]である。“Shedding Light on the Hollywood Blacklist”は、アブラハム・ポロンスキーの有名なインタビューが収録されている[41]。全米映画監督協会の1950年の会合については、それに至るまでの背景を含めた詳細な論考がある[42]

結局のところ・・・

ここまで、《フィルム・ノワール》についての批評の歴史と状況を見てきたが、「フィルム・ノワールとはなにか」といったような問いに明快に答えられるようなものには、もちろんならなかった。だが、《フィルム・ノワール》、そして後の世代の《ノワール》を愛好し、語り続ける人たちはグローバルに見ると増え続けているようだし、そういった人々が集まるポータルや、フェスティバルも増えている。エディ・ミュラーが主催するフィルム・ノワール・ファウンデーションは、フィルム・ノワールの作品の修復・復元に力を入れており、それらの作品の一部は、Kino LorberやFlicker AlleyからDVDやBlu-rayでもリリースされている。また、毎年、サンフランシスコでフィルム・ノワールの映画祭を開催している。その他にもフィルム・ノワールをテーマにした映画祭は単発的に各地で催されているようだ。

おそらく、明確な定義を欠き、論者によって矛盾やズレが生じている、この茫洋とした不定形の状態が、より多くのファンを引き付けるようになったのかもしれない。誰でも議論に参加することができ、誰でも自分が「見つけた」ノワールについて語ることができる。作品のテーマも矛盾や曖昧さに満ちており、解釈や考察も自ずと発生してくる。さらに、映像のスタイルもユニークな作品が多い。形式(フォーム)内容(コンテント)についての議論も活発になるだろう。

だが、1970年代からの《フィルム・ノワール》批評を見返してみたとき、いつまでも同じ議論を繰り返し続けていていいのだろうかという気持ちにはなる。確立したと言われていることでも、つぶさに歴史を紐解いてみると、実は極めて危うい印象で作られた話であったり、政治的、個人的思惑に左右された理論であったり、ひどく偏見に満ちた視点で作り上げられた考察だったりしてはいないだろうか。また、1940年代、50年代のハリウッドで、映画監督がどこまで《作家性》を持ち得たかという問いは常に忘れてはいけないだろう。

所詮は非耐久消費財として作られたものが大半で、数週間の興行が終わると忘却の彼方に藻屑として消え去るはずだった。DVDもブルーレイも、ストリーミングもない、TVでの放映だって不確かな時代だ。たった数週間の商品寿命しかないにもかかわらず、まるで精密機械を作るかのごとく用意周到に準備され、話題をさらって衆目を集めるために大胆な計画が立てられ、エゴがぶつかり合い、愚かな判断が下されて、用意も計画も台無しになって、それでも上映プリントが映画館に届けられるところまで、なんとか漕ぎつけて封切りされる。そんなふうにして作られた映画フィルムが、幸運にも、保管され、保存され、修復されて生き延びている。そういった映画産業の孕む業を考えたとき、今までの硬直した視点からは、おのずと解放されるだろう。

デュポンの広告(American Cinematographer誌 1943年5月号)
フィルムの感光乳剤層の感光特性測定の校正に必要な、標準照源の照度を測定している。

References

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