『頭上の敵機(Twelve O’clock High, 1949)』

1.

ダニエル・デフォーは「神が祈りの家を建てると、かならずそこに悪魔が礼拝堂を建てる」と言った。そして、その礼拝堂のほうに人が集まるのだという。

礼拝堂になぜ人が集まるのかは、悪魔の説教を聞いてみないとわからないだろう。もちろん、悪魔の説教だから嘘や悪言や虚言にまみれているだろうし、それを聞き分けるのは相当の注意力を要する。だが、この説教には人々の迷いや怒り、憎しみ、絶望、悲しみ、不安といったものを捧げさせるだけの説得力があるに違いない。自分がそういったものを乗り越えられていると勝手に信じているからと言って、その説教の誘惑に魅せられている同胞をあざ笑っているわけにはいかない。

ドキュメンタリー映画監督のエロール・モリスは『アメリカン・ダーマ(American Dharma, 2018)』で、スティーブ・バノンに長時間インタビューして、その精神サイケの底に潜むものを推し量ろうとした。バノンの最も好きな映画が『頭上の敵機(Twelve O’clock High, 1949)』だと聞いて、あの爆撃隊の基地を再現したロケーションを作り、グレゴリー・ペックが飛行士たちを鼓舞するブリーフィング・ルームを復元して、そのなかでバノンにインタビューする。『アメリカン・ダーマ』では、バノンは『頭上の敵機』以外にも、彼のお気に入りの映画を議論する。オーソン・ウェルズ監督の『フォルスタッフ(Falstaff: Chimes at Midnight, 1966)』、ジョン・フォード監督の『荒野の決闘(My Darling Clementine, 1946)』、デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋(The Bridge on the River Kwai, 1957)』などの映画を挙げて、彼なりの分析を加え、それらがいかに、彼自身のミッションに意義を与え、現在のアメリカの「運動」の精神と通底しているかを滔々と語る。

『頭上の敵機』や『荒野の決闘』が、21世紀の極右運動にとってどのような意味を持つのかを、その設計者のひとりが語るのだ。映画が好きなら聞かないわけにはいかない。

バノンによる物語分析の中心にあるのが《ダーマ Dharma》という概念コンセプトだ。《ダーマ》の一般的な意味はWikipediaに譲るとして、バノンはそこに自分なりの特別な意味を与えている。

ダーマとは義務、宿命、運命が組み合わさったものだ。ダーマを達成するためには義務を果たさなければならない。

Steve Bannon

そして、『頭上の敵機』でグレゴリー・ペックが演じるサヴェージ司令官こそ、この《ダーマ》を体現するキャラクターなのだ。エロール・モリスは、バノンの言葉に、『頭上の敵機』のあの有名なサヴェージ司令官の演説を重ねていく。アメリカ軍の爆撃機部隊の隊員たちは、戦友の多くがドイツ軍の犠牲になり続けている白昼精密爆撃 daylight precision bombing の命令に嫌気がさし、モラルが低下しきっている。その隊員たちに、サヴェージ司令官はこう告げる。

つまり、貴様らは自己憐憫に浸っているのだ。「なんのために戦ってるんだ」とかいった、そういった話に、俺は我慢ならない。俺達は戦争しているんだ。撃ち殺し合う戦争だ。戦わなければならない。死ぬやつも出てくる。怖がるなとは言わない。恐怖は当然だ。だが、それを心配している場合ではない。自分のことなど心配している場合ではない。帰国したらどうしようとか、そんなことは考えるな。もう自分は死んでいるんだと思え。

General Savage

モリスは『頭上の敵機』を「極めて虚無的 nihilistic な映画」と述べている[1]。なぜこれを作ったのがナチスではなく、アメリカなのか。「目的のために手段を選ばない」、それのどこが悪いんだと言い放つ映画を、なぜハリウッドが作ったのか。

2.

1949年末、『頭上の敵機』公開直前の試写会には、軍関係者が多く招待された。ヨーロッパ戦線と太平洋戦線で爆撃作戦を指揮したカーチス・E・ルメイも呼ばれていた。彼は試写会のあとに、こうコメントしたと言われている

専門的にみて、まちがったところはない。

Lieutenant General Curtis E. LeMay

ルメイの異様な好戦性については、あのマクナマラでさえ言及しているが、彼のような人間が高く評価されるのがアメリカ軍という組織である。『頭上の敵機』が軍事におけるリーダーシップの理想像を描いているという軍事関係者は多い。平和時に民主的な思想で育ってきた人間にとっては、「もう自分は死んでいるんだと思え」などという言葉がそのまま体現されたような映画は《虚無的》にしか見えないが、戦略作戦の遂行と人間の生死を天秤にかける(そして戦略作戦の遂行のほうへ常に傾くようにする)ことを生業にする専門家にとって、この《虚無》は間違っていないのである。この映画を軸に、リーダーシップの見直しを強く説いたアッティラ・J・ボグナー少佐は、サヴェージ司令官がいかにして部下を「自己中心 selfish」から「無私 selfless」に導いたかを議論している[2]。「忠誠」「義務感」「尊敬」「無私の奉仕」「栄誉」「高潔」「勇気」といった価値を兵士に示すのが、カリスマ的リーダーだと説く。そして、ウォーレン・ベニスの次の言葉を引用する。

マネージャーは、物事を正しく行なう。
リーダーは正しいことを行なう。

Warren Bennis [3]

戦場の血と死から、時間的にも、あるいは物理的にも離れたところで「自己中心的に」生きている私のような人間には、「無私の奉仕」を他人にインスパイアすることが《正しいこと》だと言われても、間抜けな顔をして見つめ返すしかない。しかし、私達の同胞のうちの少なからぬ人々が、どこかで「忠誠」「無私」「栄誉」といった言葉に共鳴し、真剣な面持ちでリーダーを求めている。スティーブ・バノンはその共鳴を《ダーマ》と呼んで、すべての人間がそれに従って生きるしかないのだと断言しているのである。

トランプ前大統領は就任演説で「アメリカの大虐殺 American carnage」という言葉を使った。ワシントンやウォールストリートのエリートたちがアメリカの一般市民を《大虐殺している》という意味である。いまここで《大虐殺》が行われ、ここが戦場だとリーダーが言うのだから、それは多くの支持者に《ダーマ》を呼び起こしてしまうのは当然である。エロール・モリスは、バノンがこの「アメリカの大虐殺」という言葉を書いたのだろうと推測しているが、バノンは否定する。だが、長年にわたって「アメリカの戦争」というレトリックを弄して支持者を培養してきた張本人がスティーブ・バノンである。

3.

バノンがオンライン・ゲーム産業で活躍していたことを知っている人も多いだろう。彼が起業したIGEという会社は、「ワールド・オブ・ウォークラフト」のゲームトレードで何十億もの利益を上げた。バノンは、このオンライン・ゲームの世界との接触で、あることに気がついたという。

これが本当のはなしかどうかはよく知らない。ある会社の経理課で働いていたデイヴというやつのはなしだ。100キロ以上ある巨漢で、ある日、会社のデスクで心臓発作を起こして死んだ。奥さんと子供が二人いたが、この家族はデイヴのことをよくは知らない。教会の牧師だか、葬儀屋の誰かだかが、会ったこともないのに、10分ほど弔辞を述べて、祈りを捧げて、それで永代供養ってなった。骨壷がどこかに納められておしまいさ。それがデイヴだ。

デイヴはゲームの世界ではエイジャックスと言う名前だった。エイジャックスは真の人間だ。エイジャックスの葬儀では、彼の遺体は弾薬箱に納められ、火葬壇に捧げられて、みんなでデジタル版エイジャックスを火葬したんだ。何千人もの参列者がいた。こいつらを憎む敵方の連中が葬式を襲ったりもした。エイジャックスという存在のおかげで、みんな、男も女も、家で仕事にも行かずにゲームをしてたんだ。

骨壷に入っているアナログ版の経理課のデイヴ、それとエイジャックス、どっちがよりリアルなんだ?

Steve Bannon

これだけなら、よくあるオンライン対オフラインの社会的人格の分裂の話にすぎない。「ワールド・オブ・ウォークラフト」で実際に起きたオンライン葬式をめぐる騒動から女性嫌悪の要素を取り除いて話しているところが、いかにも彼らしい(実際に亡くなって葬儀が執り行われたのは女性、それを「女は投票するな」というメッセージを掲げた「Serenity Now」というグループが襲った)。

だが、バノンはここから『荒野の決闘』に話をつなげるのだ。

ジョン・フォードの『荒野の決闘』を覚えているだろう?あれは理想のアメリカ西部だ。デジタルの共同体というのは、あの世界を人々にもたらすものなんだ。しかも、それはエイジャックスにもたらされるんだ。デイヴにじゃない。「まもなくかなたの」を歌いながらね。

Steve Bannon

このデジタルの共同体の思想を、保守派メディアに移植したのが、ブライトバイトのウェブサイト、特にそのコメントセクションだという。バノンは、人々が住む町よりも、ボーリングの仲間よりも、もっとコミュニティとして機能するのが、ブライトバイトのコメントセクションだと豪語する。

ジョン・フォードの映画を語るとき、突如現れる構図の驚きや、フレームの中で人物たちが動き、止まり、そしてまた動く空間と時間の体感や、そこを吹き抜ける風がつくりだす様々な造形の優美さと荒々しさへの感嘆を語ることは果てしなく可能だが、それらの根底に共同体コミュニティへの強固な憧憬が存在することを忘れてはならない。そして、フォードの作品の多くには、その共同体が底知れない暴力によって《非文明》を排除し、《文明》をつくりだすというナラティブが横たわっている。共同体への憧憬は、アメリカ人のなかに普遍的に息づいているが、21世紀のアメリカの現実世界、「デイヴが生きる世界」では、その憧憬さえ腐敗してしまう。だから、ブライトバイトは、デジタルの共同体の培養組織カルチャーとして機能するように設計されたのだ。コメントで培養される共同体では、《非文明》は《非西洋》《非男性》《非ヘテロセクシャル》であった。イスラム文明であり、フェミニズムであり、ゲイであった。さらにそれらを保護し、支持する民主党のエリートたちであった。この共同体培養のナラティブは、ジョン・フォードの物語と決して無縁ではない。それは、フォード自身がレイシストだったか、反動主義者だったか、あるいはそうでなかったか、は関係ない。語られた神話そのものが力を持っているのだ。バノンは『探索者(The Searchers, 1956)』のイーサンに魅せられると告白するではないか。

マーティン:血縁者がいないってどういことだよ。デビーとは血が繋がってるじゃないか
イーサン :いいや、もう繋がっちゃいない。

The Searchers

4.

フォロワーや、部下に「これがお前のダーマだ」「命を捧げるのがお前の使命だ」というのはたやすい。だが、この世界のなかで、スティーブ・バノン自身はどういう役割なのか。どんなダーマを抱えているのか。それを解く鍵はオーソン・ウェルズの『フォルスタッフ』にある。ヘンリー五世は、即位した時にフォルスタッフを裏切ったのか。バノンは「そんなことはない」という。あの向こう見ずでならず者たちの仲間だった若き王子は、今やイギリスの王の地位にある。王となったヘンリー五世がフォルスタッフを拒否するのは「物事の論理的な秩序」である。王子を育て、そして王となった時に消え去るのがフォルスタッフの義務であり、運命 ──すなわち《ダーマ》── なのだ。

あの映画のクライマックスでのフォルスタッフの表情は、フォルスタッフもそのことを理解しているということを投影していると思う。

Steve Bannon

この解釈に、エロール・モリスは「そんなふうに解釈したことはなかったね。あれは王による裏切りじゃないのか」と返す。バノンは笑いながら、ヘンリー五世/フォルスタッフの関係をトランプ/バノンの関係のアレゴリーとして語り始める。「選挙戦を指揮しましたよ、上級補佐官にしてもらえますよね?特別扱いしてもらえますよね?と言ったら、いや、そんなことはない、って言われた、ってところだよね」と、ホワイトハウスを追い出された自分とフォルスタッフを重ね、さらにトランプは私を裏切っていない、これは私の《ダーマ》なのだと主張している。

『フォルスタッフ』のあまりにも奇妙な読解だ。それはフォルスタッフという人物造形の解釈が奇妙だという点よりも、それを自らの政治家としての失墜を美化する骨格として利用しているという点が際立っている。だが、同時に、私たちはそっくりそのまま転倒させられる。あのオーソン・ウェルズの表情に私は・・何を読むのか、という問いを投げかけられているようにも思えるのだ。何世紀にもわたり、数多くの人に解釈され、批評され、覆され、バラバラにされたシェイクスピアの物語でさえ、《私》にとっては《私》のナラティブに組み込まれてしまうではないか。

『フォルスタッフ(Falstaff: Chimes at Midnight, 1966)』

私は、実はバノンは確信犯なのではないかと思っている。『探索者』にしても、『フォルスタッフ』にしても、『戦場にかける橋』、さらには『頭上の敵機』にしても、彼は、世間一般の批評家たちが繰り広げてきた論点は十分に承知したうえで、この議論をふっかけているのだと思う。これは「それってあなたの感想ですよね」などといった知恵も知性もない愚言ではなく、今までの知識階級の教養を正確に爆撃することを意図しているのではないかと思うのだ。そして、オーソン・ウェルズによるシェイクスピア劇という《エスタブリッシュメント》を再解釈して、《アメリカ大統領と私》の物語を神話化しようとしている。マイケル・ウォルフの下世話な暴露本があろうとなかろうと、そんなものは関係ない。ヘンリー五世の話だって、極めて血なまぐさくて醜悪ではないか。バノンの『戦場にかける橋』の解釈に、エロール・モリスが反論しようとも、もうすでに決着はついている。いったいどれだけの人間が、《アメリカ大統領と私》の物語を描けるのか。《ダーマ》に従ってコミュニティを築き、《ダーマ》に従って身を挺して理想のリーダーを作り上げてきた。そして《ダーマ》の成就が、大統領の完成と、私の追放だ。そんな物語ナラティブを私は紡いできたのだ。そう言わんばかりの笑顔である。

正直、なんて嫌なやつだ、という感想しかでてこない。

5.

私は最初にダニエル・デフォーの文章を引用して、バノンのインタビューと悪魔の礼拝堂について平行線を引いた。また、リベラルお得意の「バノン=悪魔」のレッテルか、と思われたかもしれない。だが、『アメリカン・ダーマ』のなかでバノンはジョン・ミルトンの「失楽園」に言及しているのだ。

「天国で奉仕するより、地獄で君臨する方が良い」
大好きな言葉だ。よく使うよ。

Steve Bannon

そのジョン・ミルトンは、生前は文学者というよりも政治パンフレットの著述家として名を馳せていた。いわゆるプロパガンディストとして、イングランド内戦から清教徒革命の時代に、議会派の側について論戦をはった。その彼の最も重要な著作のひとつが、言論と表現の自由の原則の基盤を築いたといわれる「アレオパジティカ」である。彼はたとえ悪書でも検閲されたり出版禁止されるべきではないと主張した。

(悪書は)慎重で思慮分別のある読者にとって、多くのことを発見し、論破し、あらかじめ警告し、例証するのに役立つ。
(Bad books) to a discreet and judicious Reader serve in many respects to discover, to confute, to forewarn, and to illustrate.

Areopagitica(訳:原田純)

映画『アメリカン・ダーマ』は、公開当時批判にさらされた。The New Yorkerのジェームス・ブロディはモリスがバノンを追い詰めていないと批判し、Varietyのオーウェン・グライバーマンは「腰抜けのブロマンス」と呼んだ。ベネチア映画祭で上映されたときには「スティーブ・バノンに舞台を与えてよいのか」と詰問され、ほぼ同時期に企画されたThe New Yorkerのイベントでは、「この男に話す機会を与えるべきではない」という非難が殺到し、バノンの出演がキャンセルされた。

「話す機会を与える give someone a platform」という表現じたいどうかと思うが、「話す機会を与えない deplatform」という表現まで飛び出してきて、さすがに苦笑を禁じえない。エロール・モリスも呆れ返りつつ、それでも指摘していたが、この男は持論を話したければいくらでも自分で作った舞台 platform を持っているし、作ることもできる。民主党支持者やリベラルが、彼のことをいくら deplatform しても、自己満足以外のなんの意味もない。むしろ、モリスの論点はそこにある。スティーブ・バノンという人間は、奥底に恐ろしいほどの怒りと憎しみを秘めていて、それを長い長い時間をかけて蓄積してきたために、もはや帰還不能点まで来てしまっているのだ。その人物の説く物語ナラティブになぜ人は魅せられているかを知る必要がある。「話す機会を与えるな」と言うのは、彼の不寛容と敵愾心に満ちたプロパガンダが、民衆の一部には説得力があるという事実を認めているにほかならない。「多くのことを発見し、論破し、あらかじめ警告し、例証する」ために、好きな映画について語らせたのだ。

バノンは正しいことも言っている。彼はアメリカ社会に存在する階級格差については正しいことを言っている。ひどい収入格差や経済的不平等の事実についても正しい。中流階級が取り残されているというもの正しい。じゃあ、彼の提案する解決策は正しいのか?そうは思えない。

Errol Morris
『アメリカン・ダーマ(American Dharma, 2018)』予告編
アメリカン・ダーマ
American Dharma

監督:Errol Morris
製作:Errol Morris
   Steven Hathaway
   Marie Savare
   P.J. van Sandwijk
   Robert Fernandez
出演:Steve Bannon
   Errol Morris
撮影:Igor Martinovic
編集:Steven Hathaway
音楽:Paul Leonard-Morgan
配給:Utopia
2018

[1]^ A. Wilkinson, "Errol Morris thinks he may have assumed too much with his Steve Bannon documentary," Nov. 05, 2019. https://www.vox.com/culture/2019/11/5/20943437/errol-morris-interview-steve-bannon-american-dharma

[2]^ A. J. Bognar, "Tales from Twelve O’Clock High: Leadership lessons for the 21st century," Military Review, vol. 78, no. 1, pp. 94–102, 1998.

[3]^ W. G. Bennis, "On Becoming a Leader." Century Business, 1992.