帰還兵をのせて真珠湾からカリフォルニアに向けて航行するUSSサラトガ
1945年9月頃
USSサラトガは翌年の7月にビキニ環礁の核実験で実験台に使用され沈められる。

第二次世界大戦後のハリウッド映画、特にフィルム・ノワールを考えるなかで、戦争の影響というのは常に話題になる。「(戦後の)崩壊、そして期待の浸食が、複雑な一連の変貌を経てフィルム・ノワールにたどりつく[1]」「多くの兵士、自営業者、主婦に工場労働者が平和な時代の経済に戻って感じた失望が、都市を舞台にした犯罪映画のやるせなさにそのまま反映されている[2]」といった言説はフィルム・ノワールの動機を説明する手法として定着してしまった感がある。たしかに、フィルム・ノワールでは、テーマとして戦争に従軍していた兵士たちの復員、帰還、社会復帰が頻繁に取り上げられている。では、実際のところ、アメリカ兵たちの戦後社会への復帰とはどんなものだったのだろうか。

魔法の絨毯作戦

第二次世界大戦後のアメリカ兵の帰還は、例えば日本兵たちの復員とは根本的に違う。いくら国際法があるとはいえ、負けた国の兵士たちは勝者の情けにすがるしかない。そして、彼らにはもはやなんら自主的な政治責任はないし、期待もされていない。だが、連合国側には戦後の国際関係を作り直すという使命が残されているし、連合国軍の兵士にはその役割が担わされる。だが、兵士個人は「国際関係の再構築」など興味はなく、ただ早く解放されて帰国することを願っているだけである。この齟齬が大きな摩擦を引き起こすことになった。

1944年の後半から小規模だがすでに兵士の本土帰還は始まっていた。1945年5月8日のドイツ降伏によって、ヨーロッパに展開、駐留していた兵士たちの復員計画が戦争省で検討され始める。ところがまだ太平洋で日本との戦争が継続している中での大規模な復員計画はマッカーサー将軍によって反対されて保留された1)。結局、実質的な復員が始まるのは日本降伏の後のことである。

日本の無条件降伏とともにトルーマン大統領は、徴兵人数の削減(毎月80,000人から50,000人へ削減)と従軍している兵士たちの速やかな復員(12か月から18か月以内に500万人から550万人の動員解除)を約束した[3]。しかし、この時点でアメリカ国外に展開している兵士の数は、陸軍で800万人以上、海軍が460万人にのぼっており、帰国と復員の計画の見通しは不透明だった[4, p.85] 。占領地域には治安や統制などの目的で相当数の軍人が必要である。陸軍は志願兵の募集を始め、年30万人の人員を新しく確保する計画を立てた。各戦地に展開している兵士たちの国内への送還計画(「魔法の絨毯作戦 Operation Magic Carpet」)はさらに困難を極めた。これだけの兵士を輸送するには、ロジスティックスをいかに計画するかが鍵になるが、国内では海軍にその能力はないのではないかと疑問視する声が多かった。マニラからサンフランシスコまでの航路の往復には2か月半を要する。ル・アーヴルまでの往復も平均23日間を必要とした。さらにイギリスから借用していた船舶も返還しなければならなくなっていた。大統領の発表した計画が重たくのしかかってきた。

先行きの不透明な状況に、兵士たち、兵士たちの家族、恋人たちから強烈な不満が噴出する。復員の計画が遅すぎる、いつになったら復員できるのか、という内容の手紙が、国会議員の元に殺到していた。特に子供を抱える妻たちは「パパを帰して運動 Bring Back Daddy」を各地で結成、国会議員への手紙とともに「パパを帰して」というタグのついた赤ちゃんの靴を送付して夫の動員解除を懇願した。


「パパを帰して」運動で上院議員のところへ送られてきた赤ちゃんの靴を見せる女性秘書、マジョリー・ヘンソーン [Pathfinder 1946-01-02: Vol 53 Iss 1]

下院軍事委員会でも復員計画の遅れは重要事項として取り上げられ、議員たちは地元からの不満を海軍、陸軍のトップにぶつけていた。9月には議員たちがキャンプ・デヴェンスとフォート・ディックスの復員本部を訪れ、実態を調査している。

ところが、実際に蓋をあけてみると、復員は計画をはるかに上回る速度で進んでいた。


1945年のアメリカ陸軍が予定していた復員兵の数(Estimated)と実際の数(Actual)
10月以降は100万人を超える復員兵がアメリカ本土に帰国している。

この統計に驚いたホワイトハウスは、第二次世界大戦後の戦略的人員配置計画に支障が出る懸念を示した。これを受けて陸軍参謀総長は、1946年1月に復員計画の減速を発表する。実は、この2か月前くらいから陸軍内部で兵士たちの不満が一層高まっており、世界中の駐屯地でストやデモが起こり始めていた。兵士たちの「クリスマスには家に帰りたい」という、きわめてまっとうな要求と、アメリカ政府のヨーロッパ、アジアでの権益の拡大維持を狙った占領シナリオのあいだで大きな亀裂が生じていたのだ。

特にフィリピンに駐屯していた陸軍の部隊の状況は非常に危ういものになっていた。政府高官、軍の司令部(特にロバート・パターソン)の実態に対する無知と無関心、船舶を使用した復員計画の不透明さ、目的を欠いた駐留状態などが、兵士たちの感情を逆なでし、多くの部隊でプラカードを掲げたデモが行われた。トルーマン大統領の要請によって、アイゼンハワー将軍が事態の収拾にはいった。アイゼンハワーは30か月以上従軍している兵士はすべて4月30日までに復員させると約束した[5]。この発表で陸軍兵士たちの不満はいったん収まったようである。


1946年1月にアイゼンハワーが示した復員の経過と計画[5]

1945年から46年にかけてのアメリカ兵士の復員は人類史上まれにみる民族大移動である。わずか1年のあいだに600万人がヨーロッパやアジアからアメリカ国内に帰国したのである。この人民の大移動はあまり語られていないが、やはり極めて強靭な国力がなせる業だったのだろう。

「兵士たちの帰還」は、兵士たちを迎えいれるコミュニティにとってどのようなインパクトがあったのだろうか。

「帰還兵の問題」

カリフォルニアのサンマテオの地方新聞「San Mateo Times」に リチャード・ハート Richard Hartという人物による「帰還兵の問題(Returning Veteran’s Problems)」という連載が掲載されていた。連載は1945年8月15日から始まり、翌年の中頃まで続いている。これはシンジケートの記事でおそらく全国の地方新聞に配信されたものだろう。「San Mateo Times」での掲載が最も網羅的なので、ここではこの地方紙での掲載を追っていきたい。

この連載は、帰還してくる兵士たちとその家族が抱える問題を極めて具体的にとりあげている。その題材を追っていくと、こんなことが問題になっていたのか、と少なからず驚く内容も少なくない。


帰還兵の問題を論じる新聞記事[6]

例えば、太平洋の戦線に派遣されていた兵士たちの感染病の問題、苦しい家計を理解しない帰還兵、兵士と離婚した元妻は補助金を受け取れるのか、名誉除隊か否かを家族は知ることができるのか、復員したはずなのに帰宅しない帰還兵の追跡、など極めて多岐にわたる。日本との戦争でオセアニアや南アジアに従軍していた兵士たちのなかは、熱帯の感染症、伝染病に罹患している者も多かった。特にアメリカ参戦直後は、軍が熱帯での衛生健康管理について準備不足だったこともあり、熱帯特有の病気にかかる兵士も少なくなかった。そのため、アメリカ国内では「太平洋の島から帰ってくる兵士は変な伝染病にかかっている」などといったデマがながれていたようだ。リチャード・ハートは「庭の垣根越しに講義する“専門家”(back fence “specialist”)」たちが、いろんなことを言っているかもしれないが、と前置きしたうえで、当時の状況に即したアドバイスを伝えている。最も多いのがフィラリア症だという。これも「フィラリア症にかかった男子は性的不能になる」というデマがながれていたようで、「媒介する蚊に複数回咬まれて病気が進行した者のみの話で(この記述自体も信憑性は低いのだが)、いまは発症した場合はすぐに帰国させている」と記している[6]

家計の問題は頻繁に登場する。家計をやりくりする妻の苦労に対する復員兵の無知[7]、復員の時に軍から支給される額ではとてもではないが帰宅してからの諸経費には足りないこと[8]、復員兵が海外から「伴侶」を連れてくる場合、結婚している場合には、軍から旅費が出るが、婚約者だと出ないこと[9]、といった具合で、復員兵の家庭に特有の問題かもしれないが、例えば敗戦国の日本が経験したような困窮とは比べものにならないほど余裕のあるものだった。

現在は“Post-traumatic stress disorder (PTSD)”と呼ばれているが、当時は正式な名称がなく、「battle fatigue」などと呼ばれていた。PTSDを抱えた復員兵たちは、家族にとって極めて深刻な問題となっていたが、適切な対応法は誰もわかっていなかった。彼らの《状態》は「jittery nerves」「restlessness」などと呼ばれていたが、他の問題には歯切れのよいハートも、この問題については、「結婚すれば収まるだろう[10]」、「時間をおいて様子を見よう[11]」といったアドバイスしかできていない。アメリカは第二次世界大戦でその国土の大部分が戦場にならなかった唯一の参戦国である。しかも、動員された兵士のなかでさえ実際に戦闘を経験した者は少なかった。アメリカの場合、陸軍は総計で1100万人が従軍したが、そのうち戦闘に参加する部隊に所属していたのは200万、歩兵は70万人だったという[12, p.283]。すなわち、従軍経験者のなかでもPTSDに悩まされる者はさらに少なかったのである。ましてや破壊や殺戮を目の当たりにしていない市民にとって、帰還してきた兵士の精神状態は《異物》でしかなかった。

帰還兵たちは社会に戻る

軍需で景気が一挙に回復したアメリカだったが、戦争が終わって生産活動が低下するなか、多くの退役軍人が国内に戻ってくる。戦前の大恐慌はもちろん多くの人の記憶に刻み込まれており、雇用の急激な悪化を誰もが予想した。戦前の1940年には失業者は810万人、失業率は14.6%だったが、復員計画でもほぼ同等の失業者が予測されていた。だが、ふたを開けてみると、実際には200万人程度(失業率は3.3%)にとどまった(ただし、戦後の失業者の大部分は黒人やヒスパニックを含む、マイノリティだった)。

失業率が低く抑えられた理由としてジャック・ストークス・バラードは6点あげている[4, p.131]。(1) 戦時中の労働力(女性、若年層、高齢者ら)が仕事を離れた。このうち、女性の退職者は220万人にのぼった。(2) 復員兵の多くはすぐには求職せず、休息したり、復員兵援護法(“G. I. Bill”)を利用して大学に入学したりした。(3) 多くの雇用主が、パートタイムの労働者を雇用し続けた。(4) 農業での雇用が1946年前半に急激に増加した(200万人から900万人)。(5) シフト制で長時間労働になっていた多くの企業で週40時間労働にもどったため、雇用が増加した。(6) 戦後、産業構造の変化が急速に進み、復員兵や戦時生産従事者を雇用した。歴史上類を見ない急激な人口増減にもかかわらず、「雇用と(産業)転換の両面において成功と言える」とバラードは結論付けている。

しかし、統計的には幸福にみえるものの、戦争というカタストロフィを経験した者たちにとっては、戦後の平和は必ずしも望んでいたかたちで訪れていなかったという指摘もある[13, p.7]。復員兵たちにとって「仕事、特によい仕事は見つからなかった」といい、1947年には復員兵の失業率は一般市民の3倍だったという。バラードのいう「休息」や「大学への復学」が復員兵たちによる意志による選択だったのかというと、決してそうではなかったという見解だ。住居の事情も芳しくなく、1946年初頭には150万人にのぼる復員兵が家族か、友人と同居していた。

失望の気分が全体的に広がり、1947年には復員兵の半数が、従軍は負の経験であり、自分たちの生活は戦争の前に比べてひどくなったと感じていた。自分たちの人生の一番良い時期(the best years of their lives)を戦争で失い、帰国さえも失望だったと感じていた。

Thomas Childers

確かに、戦争の経験が人生を中断してしまったと考える復員兵が少なくなかったようだ。だが、内面の問題を抱える者が多かったとはいえ、それが果たしてすぐに「複雑な一連の変貌を経て」犯罪映画のシニカルさに昇華されるかといえば、疑問符を付けざるを得ない。もう少し分析が必要だ。果たしてハリウッドの映画製作者たち、監督、脚本家らが、その失望をどこまで自分たちのものとしていたのだろうか。実際に従軍していた映画監督と言えば、フランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラー、ジョン・ヒューストン、ジョン・フォード、ジョージ・スティーヴンスらが挙げられるが、彼らの軍隊での経験と言えば、プロパガンダ映画製作である。戦場に赴いてはいたが、「消耗品」として扱われていた兵士たちとは違い、やはり恵まれた地位だったと言わざるを得ないだろう。しかも、このなかでフィルム・ノワールと深いつながりを持つのは、ジョン・ヒューストン一人だけである。彼の場合、戦前の『マルタの鷹』を含めて考えると、彼の作品にみられるシニシズムが戦争によってもたらされたものだと断言するのは難しい。他の多くのフィルム・ノワールと関わった映画監督や脚本家たちは、戦時中からハリウッドに滞在していた者が多い。彼らが好んで描き始めた「やるせなさ」が果たして《戦争》に起因するものなのか、それとも《アメリカ》に起因するものなのかは、注意深く見直さないといけないだろう。

Notes

1)^ これは除隊の基準が展開している戦線によって決まるのではなく、各兵士の在籍期間等の点数によって決まるからである。ヨーロッパ戦線に展開している兵士の数を減らすためには、除隊のための足切り点数を下げる必要があるが、これを行うと、まだ戦闘が行われている太平洋戦線に展開している部隊のベテラン兵士まで復員対象になる。九州上陸作戦を視野に入れていたマッカーサーはベテラン兵の除隊は作戦遂行に支障が出ると主張した。

References

[1]^ S. Harvey, "Woman’s Place: The Absent Family of Film Noir," in Women in Film Noir, E. A. Kaplan, Ed. British Film Institute, 1980, p. 35.

[2]^ P. Schrader, "Notes on film noir," Film Comment, vol. 8, no. 1, 1, pp. 8–13, 1972.

[3]^ L. Wood, "Draft Quotas Cut, Services to Drop 5,500,000 in 18 Months," The New York Times, New York, N.Y., p. 1, Aug. 15, 1945.

[4]^ J. S. Ballard, "The Shock of Peace: Military and Economic Demobilization After World War II." University Press of America, 1983. Available: https://books.google.com?id=L2WdQgAACAAJ

[5]^ "Gen. Eisenhower’s Statement to Congress Meeting on Army’s Program for Demobilization," The New York Times, p. 14, Jan. 16, 1946.

[6]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Preventive Methods Have Checked Infections in Pacific," San Mateo Times, San Mateo, p. 16, Aug. 15, 1945.

[7]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Debt Problem Bothersome One To Veteran’s Wife," San Mateo Times, San Mateo, p. 12, Aug. 16, 1945.

[8]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Discharge Pay Seldom Meets Home-Coming Expences," San Mateo Times, San Mateo, p. 10, Aug. 17, 1945.

[9]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Transportation Provided For Foreign Brides But Not Fiancees," San Mateo Times, San Mateo, p. 7, Sep. 12, 1945.

[10]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Married Life for the "Jittery" Veteran May Settle His Nerves," San Mateo Times, San Mateo, p. 12, Aug. 24, 1945.

[11]^ R. Hart, "Returning Veteran Problems: Takes Time For Vets To Lose Restlessness," San Mateo Times, San Mateo, p. 10, Sep. 20, 1945.

[12]^ P. Fussell, "Wartime: Understanding and Behavior in the Second World War." Oxford University Press, 1989.

[13]^ T. Childers, "Soldier from the War Returning: The Greatest Generation’s Troubled Homecoming from World War II." Houghton Mifflin Harcourt, 2009. Available: https://books.google.com?id=mrgU33zij9gC