"The World's Greatest Sinner (1962)"
The World's Greatest Sinner (1962)
Directed by Timothy Carey
Written by: Timothy Carey
Produced by: Timothy Carey
Cinematography by: Frank Grande
Robert Shelfow
Raymond Steckler (Ray Dennis Steckler )
Ove H. Sehested (Edgar G. Ulmer)
Edited by: Carl Mahakian
Music by: Frank Zappa
Starring: Timothy Carey, Gil Barretto, Betty Rowland, James Farley, Gail Griffin
Production companies: Frenzy Productions

この映画は、現在 Criterion Collection が特集している「Hollywood Crack-Up: The Decade American Cinema Lost Its Mind」のなかにリストされている。このリストには他に『影なき狙撃者(The Manchurian Candidate, 1962)』『ショック集団(Shock Corridor, 1963)』『何がジェーンに起こったか(What Ever Happened to Baby Jane, 1962)』『セコンド(Seconds, 1966)』などが入っている。

この映画をどう評するのかはとても難しい。この映画に興味をそそられるとしたら、次の2点。① 変態俳優ティモシー・ケリーが監督、脚本、製作、主演している、② 弱冠22歳のフランク・ザッパが音楽を担当。あともう一つ付け加えるとしたら、ロサンジェルスのロケ撮影が突出して魅力的なシーンがいくつかある、くらいだろうか。撮影担当の1人にエドガー・G・ウルマーも名を連ねている。

だが、とてもメインストリームのハリウッド映画とはいいがたい。「Hollywood Crack-Up」は少々言い過ぎだろう。

[ 物語 ]

クラレンス・ヒリアード(ティモシー・ケリー)は保険のセールスマンで、妻と子供2人に囲まれて幸せに暮らしていた。郊外の家では馬も飼っており、庭の手入れをしてくれるアロンゾ(ジル・バレット)もいる。しかし、この《平凡》な生活に飽きてしまったヒリアードは、保険会社を辞めて《自分探し》を始め、やがて自らを《God》と呼び始める。彼は人間には永遠の命があり、一人一人が神そのものなのだと主張して、新興宗教と政治、そしてロックンロールが混然一体となった活動を開始した。彼の集会はロックンロールの轟音の中で、《God》こと、ヒリアードがエルビス・プレスリーのように卑猥に踊り続け、観客を熱狂に巻き込んで信者に変えていくものだった。ヒリアードは未成年の少女から一人暮らしの孤独な老女まで、あらゆる女性信者とセックスしていく。彼の信者の若い男たちは理由もなくストリートで暴動を起こし始める。だが、彼の前にある者が立ちはだかる。《神》である。

[ ティモシー・ケリー ]

ティモシー・ケリーは20世紀後半のハリウッドにあらわれた《怪優》のなかでも、最も厄介な問題人物としてのエピソードの多い人物だ。おそらく、映画ファンのあいだでは、スタンリー・キューブリックとジョン・カサヴェテスが重宝した俳優の一人として記憶されているのではないかと思う。キューブリック監督の『現金に体を張れ(The Killing, 1956)』『突撃(Paths of Glory, 1957)』、カサヴェテス監督の『ミニー&モスコウィッツ(Minnie & Moskowitz, 1971)』『チャイニーズ・ブッキーを殺した男(The Killing of a Chinese Bookie, 1976)』に出演して、異様な印象を残している。『現金に体を張れ』のスナイパー、『突撃』では敵前逃亡して処刑される兵士、『チャイニーズ・ブッキー』ではマフィアの殺し屋、どの作品でも、いつか爆発しそうな危うさを抱えたキャラクターを演じている。一方で『刑事コロンボ』『スタスキー&ハッチ』などのテレビのドラマでも端役で出演しているが、そちらのほうはあまり印象に残っていないかもしれない。

ティモシー・ケリーは撮影現場で自由気ままに即興演技を始めてしまうことで有名だった。とめどない即興演技のせいで、撮影に収拾がつかなくなってしまうことが多かったようだ。『突撃』の撮影中、セリフのないシーンでも勝手にセリフを言いはじめるので、何十回も撮り直しが発生し、キューブリックを悩ませたという。フランシス・フォード・コッポラをはじめ、ほとんどの監督が撮影中に彼を馘にし、二度と仕事しないと宣言している。クエンティン・タランティーノが『リザボア・ドッグス(Reservoir Dogs, 1992)』のボス役としてケアリーをオーディションに呼んだが、結局配役しなかった話は有名だ。一説では、ハーヴィ・カイテルがケアリーとの共演を嫌がったからだと言われている。

最も有名な逸話は、『突撃』の撮影中の狂言誘拐の件だろう。ケリーは自分の役はもっと重要で、物語のなかで大きく取り扱われるべきだと考え、プロデューサーのジェームズ・B・ハリスと監督のスタンリー・キューブリックにひたすら要求をしていた。その要求を拒否されたケリーはPRスタントでメディアの注意をひこうと考えたらしい。ミュンヘンで撮影中のある日、警察がハイウェイの路上で、両手両足を縛られたケリーを保護した。彼は誘拐されたというのだが、ハリスとキューブリックは、ケリーの狂言と見抜き、その場で彼を馘にせざるを得なかった。残りの撮影は、ケリーのスタンドインを使ってやり過ごすよりなかったという。

『突撃(1957)』の軍法会議のシーン。
敵前逃亡で会議にかけられているのがティモシー・ケリー。

ワイルドで無軌道なケリーを、撮影現場でうまく扱えたのは、ジョン・カサヴェテスくらいだと言われているが、そのほかにも、彼の奇行、奇癖を許容した現場も少なくなかった。『土曜日正午に襲え(Crime Wave, 1954)』の歯を見せてしゃべるギャング、『バイユー(Bayou, 1957)』の卑猥で暴力的な南部男、『コンヴィクツ4(Convicts 4, 1962)』 の服役囚、『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!(Head, 1968)』のちょっと意味不明な人物、などを見れば、《演技》に対する彼の奇妙な姿勢の側面を垣間見ることができるだろう。

『土曜日正午に襲え(1954)』のティモシー・ケリー
ケリー得意の歯を閉じたまましゃべる演技
"Bayou (aka Poor White Trash)" のティモシー・ケリーのダンス
"Head (1968)"のティモシー・ケリー

[ザ・ワールヅ・グレイテスト・シナー]

さて、そのティモシー・ケリーが製作、脚本、監督をつとめた『ザ・ワールヅ・グレイテスト・シナー』は、ケリーにとってまさしくやりたい放題の映画、という期待が自然と湧いてくる。実際、そういう部分もあると思う。ロックンロールのステージでの彼の身体振動、次々と見境なく女性と関係を持っていく彼の卑猥なキスと抱擁、そういった描写は、1962年という時代を考えるとかなり尖っていたはずだ。一方で「作品としてまとめる」という意識が、普段、他人の映画では物語が求める境界を平気で破ろうとする彼をおとなしくさせてしまったようにも見える。特にクライマックスは、それまでの破壊の炎を一気に消火してしまうような流れで、残念というのが正直な印象だ。

この映画を「時代を先取りした、あるいはまったく時代遅れの、あるいはまるで違う平面の映画(エディ・ミュラー)」とかなり持ち上げる言もあるが、プリントの修復をうながすためのPRだったと考えるのがおそらく妥当だろう(エディ・ミュラーやジェームズ・エルロイのPRのおかげもあり、この映画は数年前に修復された)。製作公開時、ほとんど一般観客には届いていない映画だったので、映画界への影響力があったとも言えない。1960〜70年代のニュー・アメリカン・シネマの前哨戦というのも当てはまらない。あくまで個人の実験映画という位置づけで見直すのが良いのではないか。

ちなみに音楽を担当したフランク・ザッパは「ひどい映画」とだけ言っている。

The World's Greatest Sinner (1962) Trailer

ティモシー・ケリーの逸話は、掘れば掘るほど出てくるが、かなり誇張されたものや、フィクションが混じりこんでいるものも多いようだ。デビュー作『ミズーリ横断(Across the Wide Missouri, 1951)』では死体の役で出演しているが、ケリーは《死体の演技》をしようとして監督のウィリアム・ウェルマンから「死体のくせに演技をするな!」と怒鳴られた、とか(実際には、水につかった死体を演技させられたので、あまりに冷たくて凍えそうになって我慢できずに動いただけのようだ)、『片目のジャック(One-Eyed Jacks, 1961)』では、彼のあまりの無軌道ぶりにマーロン・ブランドがペンでケアリーを刺したとか、あのエリア・カザンもケアリーを殴ったとか、彼にストーキングされたのがきっかけで、キューブリックはイギリスに移住したとか、いろいろ言われているが、とりあえずは話半分に聞いておいた方が良さそうだ。

彼を映画史のなかで位置づけるうえで興味深いのは、ケリーが後世の俳優たちにどのような影響を与えたのか、という点である。いわゆる《リアリズム》がメインストリームの演技法と仮定するならば、ケリーの演技は《シュールレアリズム》にあたるだろう。ハリウッドのスターシステムのなかでは《リアリズム》なんて単なる権威付け以外の何物でもないのだが、一方で、ある一定の領域内であれば、制御された奇抜さエキセントリシティは重宝される。ティモシー・ケリーの場合、彼の《シュールレアリズム》はその領域内から完全に外れていた。メインストリームのハリウッドは、ケリーを許容するだけの余裕はなかったといってよいだろう。そして、その余裕は今のメインストリームにあるだろうか。

例えば、ニコラス・ケイジはどうだろう。ティモシー・ケリーの後継を考えるとき、風貌からも、そして近年のエキセントリックな演技からも、ニコラス・ケイジを想起する人は多いと思う。『ザ・ロック(The Rock, 1996)』『フェイス/オフ(Face/Off, 1997)』『ナショナル・トレジャー(National Treasure, 2004)』のようなメジャー・ヒット作に出演しつつも、『アダプテーション(Adaptation, 2002)』のようなインディペンデント作品で演技の実験を繰り返し、「ヌーヴォ・シャマニック」と彼が呼ぶ演技法を実践していると主張している。ここ10年ほどはメインストリームからは徐々に逸脱し『オレの獲物はビンラディン(Army of One, 2016)』『マンディ 地獄のロード・ウォリアー(Mandy, 2017)』『PIG/ピッグ(Pig, 2021)』といった具合に、どこまでも限界を押し続け、彼の演技は「アヴァンギャルド」「シュールレアリズム」とも呼ばれている。ケイジの演技法をメインストリームのハリウッドが《許容》しているとはいいがたいが、少なくとも彼の演技が重宝される場面はある。だが、それにしても《ニコラス・ケイジ》というブランドの存在ゆえの製作であって、特別なケースと言えるかもしれない。

ヌーヴォ・シャマニックは自分の想像力を増幅して、何かのフリをしていると感じることなく演技をする事にほかならない。・・・

Nicolas Cage
ピッグ(Pig, 2021)

あるいは『ビッグ・リボウスキ(The Big Lebowski, 1997)』のジョン・タトゥーロの演技が、ティモシー・ケリーの直系だという見方もできるかもしれない。タトゥーロによれば、ジーザズ(ジョン・タトゥーロ)がボーリングをする場面の演技は、ほとんどがアドリブ、撮影現場で彼が思いついたアイディアを試したものだという。紫のユニフォーム、ヘアネット、小指だけ伸びてマニュキュアした爪、ボーリングボールを舐める仕草、ストライクを決めた時のステップ、そして、あのボールを磨き方は、全部その場でタトゥーロが思いついたものだ。彼自身は、そのアドリブ演技が最終的に公開版に採用されるとは思っておらず、試写を見た時に恥ずかしくなってしまったらしい。実は、この「ジーザス」というキャラクターは、タトゥーロが1987年に出演した舞台劇「La Puta Vita」の「Chino」というキャラクターを発展させたものである。この舞台を見ていたコーエン兄弟が、タトゥーロに「Chino」をもとに「ジーザス」を演じてほしいと依頼したことが発端だ。あるアーケタイプがあって、それをもとに即興的に演じる、という方法は、映画の演技の場合、必ずしも成功するとは限らない。だが『ビッグ・リボウスキ』の「ジーザス」はそれが成功した稀有な例ではないだろうか。「ジーザス」というキャラクターを復活させた続編『ジーザス・ロールズ(Jesus Rolls, 2019)』が失敗したのも、計画された演技からは自然発生性スポンテニエティーがもつ瞬発力が失われてしまうからだろうと思う。

[Title]

今は、どのような《サイコパス》を演じることができるかで、その俳優の演技力をはかるようなところがある。さまざまな種類の《サイコ》なキャラクターが創造され、多くの俳優がそれぞれのやり方で挑戦している。すぐにキレる乱暴者、ほとんど表情を変えない冷血な人物、追い詰められて神経が飛んでしまった男、綿密な計画を立てて残虐な行為に至るサディスト、自滅的なマゾヒスト、ありとあらゆるタイプが描かれ、次々と消費されていく。現在のフィクション、物語メディアは、かなりサイコパスというものに執着していて、内部破裂した相対主義的世界観の待避線となっているようである。犯罪者でなくても、サイコパス的気質を埋め込むことで、キャラクターにタブーを仕込むことができ、物語をドライブできる。だが、ティモシー・ケリーの演じたキャラクターは、サイコパス的かもしれないが、その気質によって物語をドライブするものではなく、現在のフィクショナルなサイコパスの造形とはかなりかけ離れている。彼の演じるキャラクターがいる世界は、残忍な人間が残忍な事態を引き起こすのではなく、あるいは、残忍な世界への応答として残忍な人間が生まれるのでもなく、残忍な世界に残忍な人間がいるだけにすぎない。メロドラマ的な構成要素として作られるものではなく、ランダムに生成された《異質》なのだ。そういう視点で、様々な俳優が演じてきた《サイコパス》を見直していくのは、この偽物のサイコパスが氾濫するカルチャーにとって有意義なことかもしれない。