Edward Hopper, "Nighthawks" (部分)

エドワード・ホッパー(1882 - 1967)の「ナイトホークス Nighthawks」は、彼の最も代表的な作品だ。

ホッパーの最も有名な作品のひとつ、「ナイトホークス」は、夜の都会の生の光景である。場所は、彼がよく知っていたグリニッチ・ヴィレッジのダイナー。1940年代には蛍光灯の照明は比較的目新しく、ホッパーはその明るさを用いて、ダイナー内部を都会の暗い夜の安らぎのオアシスとして強調している。

Ita G. Berkow [1]

「ナイトホークス」の評には、<都会の孤独>、<寂寥>、<静寂>、あるいは<オアシス>、<光と闇>といった言葉が頻繁に現れる。また、ホッパーがアーネスト・ヘミングウェイの短編小説「殺人者(The Killers)」を大変気に入っていたことから、そこに登場するダイナーと関連付けて鑑賞する人も多い。1930年代~40年代はいわゆるハードボイルド小説の古典期にあたり、この絵にダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、そして当時のハリウッド映画とのパラレルを指摘する批評も存在する。さらに時代を下って、リドリー・スコットが『ブレードランナー(The Blade Runner, 1982)』のインスピレーションのひとつとして「ナイトホークス」を語っており、ネオ・ノワールの想像力の源泉として論じることも可能であろう。どんな切り口を持ってきても、興味と想像の領域が広がり続ける不思議な作品である。

私自身は、深夜のダイナーという日常的であるはずの光景が、どこか非日常的な世界に埋め込まれているように感じられ、その歪みのメカニズムがいつも気になっていた。

アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後に導入された消灯令(ブラックアウト)について様々な文献や資料、新聞などを読み進めるなかで、「ナイトホークス」についての以下の文章に遭遇した。

「ナイトホークス」はホッパーの世代が経験した最大の出来事のひとつ ── 1941年12月7日の真珠湾攻撃、そしてアメリカの第二次世界大戦への参戦 ── に対するホッパーの応答だということを、知る人は少ない。ホッパーは街のなかを歩き回るのが好きだったが、この局面を迎えたあとでは、まったく違う経験に感じられたに違いない。

Sarah Kelly Oehler [2]

「ナイトホークス」が描かれたのは1942年1月、真珠湾攻撃からまだ2ヶ月も経っていない時期である。ニューヨークは夜になると消灯令が頻繁に発令された。西海岸が日本軍の襲撃に神経質になるのはまだ理解できるとしても、東海岸の各州でも同様に色めきだっているのは過剰反応のように思える。ナチス・ドイツの爆撃機が編隊を組んで大西洋を渡ってくるという黙示録的な光景を皆が思い浮かべていたのだろうか。この頃、政府も軍も、そして新聞も足並みをそろえて、志願する若者たちを称え、遠い太平洋での危機を叫び、本土の安全保障に躍起になっていた。戦争は始まったばかり、実際の大規模な派兵もこれからというタイミングだが、国内には「戦争だ!」という高揚感ばかりが先走っていたようにみえる。そのなかで、消灯令は民間人ができる数少ない<参戦>であり、実際の効果や戦争への貢献は別として、都市部の人々が声を揃えて<活動>できる希少な機会だったのではないか。

当時の新聞や雑誌を見ていると、消灯令を守らない人たちを糾弾するとまではいかないまでも、愛国心に欠ける、怠惰な人々と揶揄する論調に覆われているのがわかる。例えば、消灯令の発令の様子を報じるロチェスターの新聞の記事は、ショーウィンドウの照明を消し遅れた店を取りあげて「消灯令の暗闇を台無しにした」と報じている。

消灯令下のロチェスター、ニューヨーク。
下の写真で右手の店が消灯をしていないために
通りが明るく照らされている。
”Democrat and Chronicle" 1941/12/15

この空気のなかでホッパーは「ナイトホークス」を描いた。描かれた街角は暗い。消灯令下で息をひそめている街角だ。その街角に佇むダイナーの大きなウィンドウから放たれる蛍光灯の光が闇と拮抗し、溶解している。現実のグリニッジ・ビレッジならば、このダイナーも周囲の店舗と同じように閉店して夜に沈んでいなければならないはずだ。「暗い夜の明るいオアシス」は戦時下の街角に存在してはいけない場所なのだ。

つい数週間前まで、深夜のダイナーが舗道を明るく照らす風景は<日常>だったに違いない。だが、開戦を境に消灯令の闇の街が<日常>になり、蛍光灯に眼が眩むようなダイナーは<非日常>になってしまった。<日常>と<非日常>が反転し、ありきたりだった光景が失われてしまった。背景に佇む建物の暗い窓、暗いショーウィンドウは、どこかで見たことがある。そう、『深夜の告白』のオープニングのロサンゼルスだ。ウォルター・ネフが瀕死の重傷を負いながら乱暴に運転して走り抜ける街、あのビルトモア・ホテルやヴィクトリー・スクエア・ドラッグストアの暗い窓、暗いショーウィンドウと、「ナイトホークス」の背景で佇んでいる暗い建物はつながっている。

「ナイトホークス」を制作する前の約1年間、ホッパーは精神的に絵を描けない状態にあったという。ケープ・コッドの別荘でも、ニューヨークのアトリエでも、ほとんど作品を仕上げていない。友人にはヨーロッパの戦況について「不安に苛まれる(suffer anxiety)以外、なにもできない」と書き送っている。その彼が真珠湾攻撃の直後に取り憑かれたように「ナイトホークス」を描きあげた。エドワード・ホッパーの妻ジョセフィーンがエドワードの姉、マリオンにあてた手紙が面白い。

エドは、爆撃されるかもしれないという話をしても、まったく聞く耳を持たない。私達の住んでいるところはガラスの天窓、雨が降ると屋根から雨漏りする。彼は用心するなんてまっぴらという感じで、私が、夜中にパジャマで外に飛びなさなきゃならなくなったときのために、タオルや鍵、石鹸に小切手帳、シャツ、ストッキング、ガーターをナップサックに詰めているのを見て鼻で笑っているだけ。消灯令が出ても、天窓にはカーテンをしていない。でもエドはおかまいなし。彼は新しい作品にとりかかっていて、じゃまされたくないらしい。

Josephine Hopper [3]

彼のアトリエは、消灯令の最中でも空に向かって煌々と光を拡散していたのだろうか。「ナイトホークス」のダイナーそのものではないか。

ジョセフィーンの手紙からは、国を覆い始めた偏執と熱狂をエドワード・ホッパーが冷めた視線でながめていたように見える。実際のところはどうだったのか分からないが、暗い消灯令のグリニッジ・ヴィレッジの街角に、煌々と明るいダイナーを描いたのは、ある種の抗いだったのだろう。

この作品はシカゴ美術館が$3,000で買い取り、1942年11月の展覧会でアダ・S・ガレット賞を受賞する。当時の評には、後世の批評家たちがこの作品を表現するときには使わないであろう語彙が登場する。

エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」は面白い(amusing)、時代にぴったりの(topical)キャンヴァスだ。

Eleanor Jewett [4]

「amusing」を「面白い」と訳すには難があるかもしれないが、この「amusing」は、どこか楽しい、ほっこりと微笑んでしまう、といった感じが漂う。これは孤独、寂寥、殺伐といった感傷とかけ離れているように聞こえるが、一方で<日常>のなかに<非日常>が埋め込まれた異譚の風景が呼び起こす言葉としてはおかしくないのかもしれない。

ニューヨークのエドワード・ホッパーは、作品「ナイト・ホークス」でアダ・S・ガレット賞を受賞、750ドルを手にした。この作品は、深夜の「即席メニュー」ランチルームをシンプルに、印象深く描いた絵画である。ランチルームの長く、水平にのびる抽象的なデザインが、緑、赤、灰色のあたたかい(warm)背景に映えている。

The Art Digest [5]

現在、この絵の背景を「warm」と表現する人はどれくらいいるだろうか。しかし、そう言われてもう一度見てみると、そうなのかもしれない。

2020年の初頭、コロナ/Covid-19が世界を襲い、世界の各都市で<ロックダウン>がはじまった。この頃、自分たちがおかれた状況をエドワード・ホッパーの作品になぞらえたTweetが注目された。

なかには、「ナイトホークス」のダイナーを<ロックダウン>の情景に変貌させたものもあった。

「私たちはみんなエドワード・ホッパーの絵の世界になってしまった」という退屈なSNSの皮肉を、深刻な面持ちで受け取った者などいないだろう。「ああ、そうだね」とどこか笑いながら、<amusing>だと思って見ていたのではないか。ホッパーの作品をmetaphysicalな空間 ──心象風景のようなもの── として体験しているあいだは、孤独とか、静寂といった語彙が共有されていたが、physical【物理的/身体的】な境遇として体験したとき、amusingなものに変貌したのは示唆的だ。時代とともに感性が変わったとか、過去の人々の視点は不自由だったとか、あるいは現在の私達の視点が不自由だとか、そういったわけではなくて、おそらく日常の営みの緩さを信じていた人たちが、ちょっと転ばされた時に感じる、怒りにもならない怒りや恐怖にもならない恐怖のようなものを受け流す、反射的な反応なのだろう。

ホッパーが、ヘミングウェイの「殺人者」やハードボイルド小説に影響を受けて「ナイトホークス」を描いたとする議論は、私には、後世の鑑賞者の願望的思考のように思えるが、同時代の映画監督でホッパーの絵画に影響を受けたと告白する者はいた。『悪の力(Force of Evil, 1948)』は、フィルム・ノワールと呼ばれる一連の作品のなかでも、もっともやりきれない後味を残す作品だが、監督のエイブラハム・ポロンスキーはインタビューでこう述べている。

僕はジョージ(撮影監督のジョージ・S・バーンズ)に自分が探している映像を説明しようとしたのだけれど、なんて言えばいいのかわからなくて、うまく伝えることができなかった。僕は本屋に出かけていって、ホッパーの画集を買ってきた。サード・アヴェニュー、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り ── そういう絵だよね。そこに人がいるのに、見えない。どういうわけか、周りの環境が人を支配している。僕はジョージに画集を見せて「こういうのが欲しいんだ」と言ったんだ。すると、「なんだ、これか!」と彼はすぐに「これ」が分かってね。そのあとは最後までなんてことはなかった。ジョージは、僕が欲しかったトーンが一度分かったら、そこから絶対にブレなかったんだ。

Abraham Polonsky

画集と言っても、現在のような色の再現性を極限まで追求した印刷物ではない。1948年当時に入手可能なホッパーの画集、例えば American Artists Group Monograph のシリーズ(1945年刊)は、大部分が白黒の図版である。画集に掲載された「ナイトホークス」には、闇を覆う緑の色調も、背景の建物のレンガ色も、ダイナーの壁の若干汚れたクリーム色も、存在しない。

『悪の力(Force of Evil, 1948)』
d. Abraham Polonsly
dp. George S. Burns

かつてホッパーは<アメリカ>を体現する画家として、ウィンスロー・ホーマーやグラント・ウッドとともに語られていた。彼の作品は<特異なスタイル>や<ユニークな作風>と形容され、他の芸術家たちとは一線を画していると常に言われていたが、むしろ<アメリカ>を体現する画家のあいだで共通する作風を見出すほうが困難だ。だが、ホッパーがアメリカに特徴的なある種の景色を執拗に描き続けたのは確かだ。

イギリスのアート・ジャーナリスト、ジョナサン・ジョーンズは「エドワード・ホッパーの絵に登場する家はすべて殺人鬼の家みたいだ」と言った。ヒッチコックの『サイコ(Psycho, 1960)』に登場するノーマン・ベイツの家は、ホッパーの "House by the Railroad (1925)" がモデルになっているという話は、<映画史上の名作>の逸話として少し完璧すぎる気がするが、<アメリカ>が無軌道な暴力をいたたまれないほど内包しているという点では、説得力がある。

そこに人がいるのに、見えない。第二次世界大戦という暴力の場に引きずり込まれたときに、悲愴感ややりきれなさよりも高揚感や期待が人々を覆うという奇妙さへの違和感が1940年代のホッパーの作品 ── "Nighthawks" だけでなく、"Dawn in Pennsylvania (1942)" や "Appraoching a City (1946)"、"Seven A. M. (1948)" など ── には漂っている。人のいない世界に底の見えない闇の穴があいている。『疑惑の影』、『深夜の告白』、『悪の力』といった作品にもやはり闇の穴があいている。

闇の穴はいまでもあいている。アメリカで銃の乱射事件が起きるたびに、銃の売上げが伸びるのだという。いままで銃と無縁だった人たちが、乱射の恐怖を目の当たりにして、護身用に買うらしい。「すべて殺人鬼の家みたいだ」という表現はそれほど的外れではない。

References

[1]^ I. G. Berkow, Edward Hopper : an American master. Smithmark Publishers, 1996.

[2]^ S. K. Oehler, “Nighthawks as a Symbol of Hope,” Mar. 2020, Accessed: May 31, 2022. Link

[3]^ G. Levin, “Edward Hopper’s ‘Nighthawks’, Surrealism, and the War,” Art Institute of Chicago Museum Studies, vol. 22, no. 2, pp. 181–200, 1996, doi: 10.2307/4104321.

[4]^ E. Jewett, “53d Paintings and Sculture Show Pleasant,” Chicago Tribune, Chicago, p. 4, Nov. 01, 1942.

[5]^ “Chicago Continues American Annual,” The Art Digest, vol. 17, no. 3, p. 5, Nov. 01, 1942.