Electronic Associates Inc. パンフレット(1966年)

ロナルド・レーガンの失望

国防の中枢の作戦指令室に大きなスクリーンがあり、世界地図の上に核爆弾を搭載した爆撃機の位置が映し出されている。爆撃機の飛行軌道が刻一刻と伸びていき、人類の滅亡への秒読みが始まる ─── そんなイメージを多くの人々の脳裏に焼き付けたのが、『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb, 1964)』の作戦指令室(“War Room”)の作戦ボード(“Big Board”)ではないだろうか。以来、ミサイルや敵の戦闘機が領内を侵犯しているような危機的状況をあらわす代名詞として、「巨大なスクリーンに映し出された地図の上に描かれる輝点の軌跡」そして「それを不安げに見上げる国防関係者たち」という構図は幾度となくフィクションのなかで繰り返されてきた。レーダーが捕捉した情報や演算によって求められた軌道を動的ダイナミックに《視覚化》して大きなスクリーンに映し出し、部屋にいる者全員が同時に同じ視覚化された情報を見る。21世紀の私たちにとっては、コンピューターとプロジェクターを使えば実にたやすい作業だが、冷戦の真っただ中である1950~60年代、はたしてどんな技術があったのだろうか。映画の作戦ボードはモデルがあるのだろうか。

ショーン・M・マロニーの「Deconstructing Dr. Strangelove[1]」や、他の文献を参照してみていくと、『博士の異常な愛情』公開当時のアメリカの国防の実態について、いくつかのことが明らかになる。

1. アメリカ大統領とソ連書記長の間に直通国際電話は存在しなかった。
2.リアルタイムで爆撃機の位置を表示できる作戦ボードは存在しなかった。

『博士の異常な愛情』が公開される前年にキューバのミサイル危機が起きたが、そこで危機発生時のアメリカとソ連首脳部同士の対話の技術的困難さが露呈した。お互いの大使館を介したやり取りは煩雑なうえ、ひどく時間もかかっていた。セキュリティに関しては、ほとんど何も考慮されていない。ソ連のドブリニン大使はウェスタン・ユニオンの電報サービスを使ってモスクワとやり取りしていたという。以前から直接対話できる「ホットライン」の必要性が議論されていたが、キューバ危機が触媒となってようやく設置されたのである。だが、それは通訳を介して首脳同士が直接会話する《電話》ではなかった。1963年8月に設置されたのは海底ケーブルでつながれたテレタイプである[2]。映画で描かれている、書記長の愛人の部屋にでも直接かけられるような《電話》は存在しなかったのである。

また、『博士の異常な愛情』に登場するような作戦指令室(War Room)も現実には存在しない(存在しなかった)というのも驚きだろう。ロナルド・レーガンが大統領に就任したとき、『博士の異常な愛情』の作戦指令室はどこにあるのかと聞いたところ、側近に「ない」と答えられて、ひどく失望したと言われている。じつのところ、この逸話は信憑性を疑うしかないのだが、それでもこの話が繰り返し語られて揺るぎない実話になりつつあること自体が、『博士の異常な愛情』の作戦指令室の神話的魔術を物語っているのかもしれない。マロニーによれば、核戦争の危機の際にペンタゴンの統合作戦指令室(Joint War Room)で大統領と側近が会合を開くことはなかっただろうという。同年に公開された『未知への飛行(Fail Safe, 1964)』では、ヘンリー・フォンダ演じる大統領がホワイトハウスの地下の限られた設備のスペースで、テレタイプを使いながらソ連の首脳とやりとりするが、そのほうが当時の現実に近かったのではないかと述べている[1]。だが、『博士の異常な愛情』の作戦指令室は、機能的なデザインが演劇装置的にも非常に優れており、核によるアルマゲドンをあらわす図像アイコンとして広く浸透した。FIFAの理事会会議場が、このデザインと酷似しているのは意図せざる皮肉なのかもしれない。

作戦ボードについては、当時採用されていた大型ディスプレイの技術が、その後の技術、そして現在の技術と大きく隔たりがあり、興味深い。冷戦時代の終末的核戦争の想像力は「核ミサイルが地図上にリアルタイムで表示される」イメージと深く結びついている。作戦ボードという単一の仮想空間で戦争が繰り広げられる冷戦の時代は、現在のウクライナの戦場のようにドローン映像やスマートフォン動画の《リアル》な動画の混沌とした集合体コレクションとしての仮想空間で起きる戦争の時代とまったく違うだろう。だが、私たちは、現在もアメリカとロシアがそれぞれ5,000発以上の核弾頭を保有しているという事実を忘れがちだ。ウクライナでの戦争がきっかけとなり、ロシアもアメリカも New START に基づいた核弾頭の削減の履行を停止している。私たちは「核ミサイルが地図上にリアルタイムで表示される」想像力を失っただけで、その現実は今も継続しているのだ。

1964年の作戦ボード

『博士の異常な愛情』の作戦ボードはどんなものだったか。作戦指令室の壁の全面を覆う巨大な白黒のディスプレイで、陸地が黒、海洋が薄い灰色で表示されている。表示されているのはソビエト連邦で(隣にアメリカ本土のディスプレイもある)、軍事的に重要な場所には白いマークがほどこされている。そして戦略爆撃機の軌道が白い点線で示されている。この軌道は一定時間ごとにアップデートされており、爆撃機が目標に向かって進むにつれて点線がさらに伸びていく。この作戦ボードは、おそらくバックプロジェクションのスクリーンで、固定された地図のスライドと攻撃目標の位置が示されたスライド、そして爆撃機の現在位置を示すプロットのスライドを重ね合わせて投影したものだろう。

『博士の異常な愛情(1964)』の作戦ボード

『博士の異常な愛情』の美術を担当したのは、ケン・アダム(1921〜2016)だ。製作準備段階で、彼とキューブリックは NORAD(North American Aerospace Defense Command, 北アメリカ航空宇宙防衛司令部)のシステムを参考にしたようである[3]。キューブリック家に残っていた資料には、RCA が NORAD1) のために開発したシステムについての切り抜きが保存されている。切り抜きから判断すると、おそらく「ARMY」や「AIR FORCE AND SPACE DIGEST」などの雑誌に掲載された広告だろうと思われる。広告のタイトルは「NORAD ON THE ALERT(警戒態勢のNORAD)」。BMEWS(Ballistic Missile Early Warning System, 弾道ミサイル早期警戒システム)からの情報をもとに、NORADの司令本部にミサイルの位置データを即時、直接供給する、といううたい文句だ。広告のイラストは、NORAD司令本部の内部の様子、北半球とアメリカを表示している2枚の大スクリーンとそれに向かい合って座っている職員たちが描かれている。アメリカの地図には飛翔体の軌跡も描かれている。『博士の異常な愛情』に登場する作戦指令室のセットデザインは、NORADの指令室とは全く異なるが、作戦ボードに関して言えば、キューブリックとアダムがNORADのディスプレイを参考にしたのはほぼ間違いないだろう。

ケン・アダムとスタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』のセットデザインのために集めた資料のなかにあったRCAの広告と同種のもの。NORADの巨大ディスプレイが描かれている。(ARMY, vol.12 no.3 October 1961)

1960年代初頭、電気信号を直接ディスプレイ表示できるのはブラウン管(CRT)だけだったが、それも20インチ(約50センチ)が実用上の最大のサイズだった。それ以上の大型スクリーンに情報を提示するには投影型のテクノロジーが唯一の方法で、それにはおおまかに言って2種類の技術があった。ケガキを入れたスライドを投影する機械的メカニカルな手段と、撮影したフィルムを投影する写真フォトグラフィックの技術を応用した手段である。

NORADの大スクリーンは「イコノラマ(Iconorama)」と呼ばれるもので、Fenske, Fedrick and Miller (のちにLing-Temco-Vaught が買収)によって開発された技術である[4]。イコノラマはレーダーから収集されたデータをもとに機械的メカニカルな手段で、敵ミサイルや爆撃機の位置を地図上に表示する。エマルジョンがほどこされたガラススライドが用意されており、サーボ制御されたスクライバーがレーダーのデータをもとにガラススライド上のエマルジョンにキズをつけて、ミサイルの位置を表す。いわゆるプロッターと同じ原理だ。これを世界地図とともに大スクリーンに投影する。ガラススライドを交換すれば、表示内容の変更も可能である。敵ミサイルの発見から表示までの所要時間は8秒だという[5]

NORADのイコノラマ(1960年頃)[6]

上の図は、当時コロラドスプリングスのNORADにあったイコノラマの様子である。いずれのスクリーンにも楕円で示された地域があるが、これは敵国のミサイルの予想着弾点を示しているという。イコノラマは、ガラスに施された膜を削って表示をおこなうという原理であるために、表示データの消去に手間がかかり、また複数の情報提示などには適していなかった。プロッターの動作を考えてみていただければわかると思うが、多くのデータを一斉にアップデートする作業には向いていない。上記の8秒という所要時間も、ある1点を表示する際にかかる時間というだけであろう。

イコノラマは、1960年代にはすでに時代遅れのディスプレイ技術になりつつあった。『博士の異常な愛情』や『未知への飛行』では、核戦争戦略の中心は爆撃機だが、もうすでに当時、大陸間弾道ミサイルが登場し、防衛システムの応答速度はより高速になる必要が出てきた。同時に民間航空機の飛行も大幅に増加してきたため、それらを敵国の脅威と見分ける必要もある。これらの問題を解決し、アメリカ全土を網羅するより優れたシステムとしてSAGE(Semi-Automatic Ground Environment)が登場した。(続く)

NOTES

1)^ 1960年代、核戦争に備えた米国国防システムの中枢は、コロラド州コロラド・スプリングスのNORAD司令部と、ネブラスカ州オマハの SAC(Strategic Air Command, 戦略航空軍団)司令部であった。弾道ミサイル早期警戒システム(Ballistic Missile Early Warning System, BMEWS)では、敵国がICBMを発射すると、グリーンランドのチューレ、アラスカのクリア、イギリスのヨークシャーにあるレーダーがミサイルの位置を把握、そのデータをコロラド・スプリングスとオマハの2拠点に送ってくる。それぞれの司令部には Display Information Processor (DIP) と呼ばれるディスプレイ用コンピューターがあり、これが司令部の壁に設置された大スクリーンにミサイルの位置情報を表示する仕組みになっていた。

REFERENCES

[1]^ S. M. Maloney, "Deconstructing Dr. Strangelove: The Secret History of Nuclear War Films." U of Nebraska Press, 2020. Available: https://books.google.com?id=yCngDwAAQBAJ

[2]^ T. Clavin, "There Never Was Such a Thing as a Red Phone in the White House." https://www.smithsonianmag.com/history/there-never-was-such-a-thing-as-a-red-phone-in-the-white-house-1129598/

[3]^ "Vom ersten Scribble bis zum Set: Die Entstehung des War Rooms | Ken Adam Archiv." https://ken-adam-archiv.de/editorial/vom-ersten-scribble-zum-set-entstehung-des-war-rooms

[4]^ G. W. N. Schmidt, "The ICONORAMA System," Datamation, vol. 11, no. 1, p. 31, Jan. 1965.

[5]^ R. L. Moora, "BMEWS Takes Shape ... On Schedule," Electronic Age, vol. 19, no. 3, p. 7, Autumn 1960.

[6]^ R. L. Moora, "BMEWS: 20th Century Watchtowers," Electronic Age, vol. 22, no. 4, p. 22, Autumn 1963.