Burroughs のシステム・ダイアグラム

ケルヴィン=ヒューズ型ディスプレイ

前回は、『博士の異常な愛情』が参考にしたと思われる、機械的メカニカルな原理を用いたディスプレイ、イコノラマについて説明した。

当時存在した、もうひとつの種類のディスプレイについて今回は紹介したい。このディスプレイ方式は『博士の異常な愛情』の公開後、実際にアメリカの国防中枢で使用されたもので、写真フォトグラフィックの技術を応用したケルヴィン=ヒューズ型と呼ばれる写真表示ユニット(Photographic Display Unit, PDU、あるいはPhotographic, Recorder-Reproducer, PRRとも呼ばれる)である。「冷戦」の発明国であるイギリスで開発された技術だ。イギリス空軍は、1950年代前半にレーダー網を強化してソ連の爆撃機の領空侵入を察知する早期警戒システム(ROTOR)を構築していたが[1]、そのレーダー像を大スクリーンに投影するために、ケルヴィン=ヒューズ社によって開発されたのが、写真表示ユニットである。レーダー用CRTの画面を写真に撮影、現像して直径1.8メートルのスクリーンに投影する。このシステムが画期的なのは、撮影、現像、投影が全自動で行われる点である。ユニットには35㎜フィルムのリールが組み込まれ、CRTとその画面を撮影するカメラ、自動現像装置、投影装置が内蔵されている。CRTの画面を撮影してから、現像と乾燥を経て、表示される前に1分かかった[2]。つまり、世界滅亡には1分遅れであったがスクリーンでその様子を見ることができたのである。

レーダーで検知されてからスクリーンに表示されるまでのタイムラグをいかに短くできるかは、喫緊の問題であった。なぜなら、爆撃機の速度は年々早くなっており、表示までに1分もかかるとそのあいだに爆撃機は10キロメートルも移動してしまうからである。1960年代に登場したICBMはマッハ20以上もの速度で飛行するので、1分は400キロメートルもの距離になってしまう。日本海上に表示されたときには、もうすでに札幌まで到達しているかもしれないのである。この《投影までのタイムラグ》を最小限にすることが国家の存続を左右さえする。

アメリカではレーダー網のデータを統合化するSAGE1) が1958年から順次投入されていた。『博士の異常な愛情』の公開後の1960年代後半に、NORADでは前述のイコノラマがケルビン=ヒューズ型のディスプレイに取って代わられた[2]。下図がその概略図だが、フィルムを送り出す送り出し(Magazine)と巻取り(Take-Up Spool)があり、そのあいだに撮影、現像、投影を行うステーションがそれぞれ設けられている。撮影は専用のCRTに映し出された映像を撮影し(“Clamp/Camera”の位置)、その後現像ステーションで(“Clamp/Processing”の位置)現像された後、投影(“Projection”の位置)される仕組みになっている[3]。CRTはレーダーの表示そのものではなく、SAGEのシステムから出力される統合データを表示していたようである。この統合データはSAGEの「半自動」という言葉が物語っているように、マニュアルで処理される工程も含んでいたため、CRT表示までに時間がかかっている。そして、CRT表示から投影までには、フィルム現像をする必要があるためにさらに時間がかかる。当初は投影まで30秒かかっていたが[3]、バローズが1960年代に開発した大型ディスプレイはタイムラグを10秒まで縮めることができた。CRTに表示できる記号は128種類、スクリーンには7色で投影できる[4]。世界の滅亡にはかなり間に合わないが、カラフルに表示できる仕組みである。

SAGEで使用されたケルヴィン=ヒューズ型のディスプレイシステム [3]
SAGEのディスプレイシステムの内部 [3]

上の図は、SAGEで採用されたケルヴィン=ヒューズ型のディスプレイシステムの内部の写真である。35㎜のフィルムが「FILM MAGAZINE」に搭載され、「FEED LOOP CHAMBER」を通過して送り制御されたのち「RECORDER LENS ASSEMBLY」に通される。SHROUD (HOOD)内にあるCRTの映像が、「RECORDER LENS ASSEMBLY」によってフィルム上に投射される。このように撮影されたフィルムは「PROCESSING POT」上に送られて、そこで「PROCESSING POT」から供給される現像液によって現像される。現像が終わったフィルムは「FILM GATE」で固定され、左側にあるハウジングに格納された水銀ランプ(表示なし)からの光が照射され、フィルムの透過像は上部のPROJECTION MIRRORで反射されてスクリーンで像を結ぶ。下図にフィルムの現像アセンブリの概要を示しておく。

SAGEのディスプレイシステム:フィルム現像部 [3]
SAGEで使われていたケルヴィン=ヒューズ型ディスプレイの動作の様子
From “SAGE SYSTEM TRAINING PROGRAM COLD WAR EARLY WARNING SYSTEM 78864” (archive.org)

このビデオを見てもわかるように、『博士の異常な愛情』に登場する作戦ボードは、当時、そしてその後も実際に使用されていたディスプレイ技術をはるかに超えた性能を有していると考えてよいだろう。キューブリックとアダムが参考にしていたのは、NORADのイコノラマだったかもしれないが、映画で描かれる作戦ボードは明らかに即時性に優れており、複数のデータを同時に更新して表示する機能もある。よく見ていると、『博士の異常な愛情』の作戦ボードはリアルタイム表示だということは一度も明言されておらず、ひょっとするとその意図もなかったのかもしれないが、観客の大部分はあの作戦ボードに写っていたのは爆撃機の現在位置だと思ったに違いない2) 。そして、大胆に簡略化された表示、明瞭でミニマルなデザイン、という点において、当時実在したイコノラマのケガキやケルヴィン=ヒューズ型のぼんやりした頼りない表示よりも、軍事技術の強靭さと完成度の高さを印象付ける、はるかに魅力的なものに仕上がっている。

『未知への飛行』でもSACの壁に設置された大型スクリーンが登場するが、これは『博士の異常な愛情』に登場するものとかなり様子が違う。おそらく光束をスキャンする「アイドホール Eidophor 」か、GEが開発していた「タラリア Talalia」プロジェクターの映像を模したものだろう。映画では、このスクリーンに偵察人工衛星からの映像をリアルタイムで映し出すシーンがある。だが、1964年に偵察衛星からリアルタイムで映像をフィードするシステムは完成していなかった。アメリカ空軍がリアルタイムの映像送信を目的に開発していたサモス人工衛星計画(Samos)は度重なる失敗と各省間での駆け引きの結果、中止に追いやられてしまっていた。一方、実際に稼働していたのはCIAの管轄下にあったコロナ偵察衛星(Corona)である。コロナ偵察衛星は写真フィルムで対象を撮影し、そのフィルムを格納した容器を地上に向けて放出する方法をとっていた。容器は地上60,000フィートでパラシュートが開き、そしてアメリカ空軍の試験飛行中隊の輸送機が、容器を地上15,000フィートで回収する。写真の回収は平均で1~2ヶ月に1回の頻度であり、リアルタイムの敵地偵察とは程遠いものだった。

当時、もし核兵器による攻撃が行われた場合には、『博士の異常な愛情』や『未知への飛行』にみられるような、首脳部による現状把握や分析、さらには相手とのコミュニケーションをとる時間もなく、事態が急速に悪化していっていたのかもしれない。防衛総省とRANDの協力のもとに製作された映画『ファースト・ストライク(First Strike, 1979)』はまさしくそのような事態を指摘していた。

暴走するのはどちらの側か

『博士の異常な愛情』でも『未知への飛行』でも、バランス状態にある米ソ関係を核の脅威で崩してしまうのはアメリカ側である。ジャック・D・リッパー准将の暴走やコンピューターの誤作動が原因となって、核兵器を搭載した爆撃機をソ連に向かわせてしまう。だから、アメリカの作戦ボードに映し出されるのは、ソ連・・の地図であり、ソ連の領土内に・・・・・・・侵入していくアメリカの戦略爆撃機の機影が時間とともに戦略目標に向かって伸びていく。

1960年代には、アメリカはソ連領土内の空域を飛行する飛翔体を作戦ボード上で追跡する能力はおろか、レーダーで検知する能力さえなかった。おそらくBMEWSのレーダーが最も遠方をカバーしていただろうが、それでもソ連国土の内部までは届いていなかった。確かに『博士の異常な愛情』でも、作戦ボードに映し出されているのがレーダーで捕捉された爆撃機の位置という説明はない。各爆撃機が攻撃中止の命令を受理して引き返し始めたという通信を確認し、残りの爆撃機に関してもソ連側の撃墜情報を受け取ってから、作戦ボードの爆撃機の軌跡が消えることからも、あの作戦ボードの情報はレーダー情報ではないのだろう。だが、『博士の異常な愛情』も『未知への飛行』も、ソ連の領内に進攻する自分たちの核兵器を追跡しているが、実在したNORADやSACの作戦ボードは、アメリカしか映していない・・・・・・・・・・・・という点は重要なのではないだろうか。すなわち、当時のアメリカは、自分たちが暴走してソ連に核攻撃を始めるという事態よりも、ソ連側が突然爆撃機を飛ばしてきたり、ミサイルを撃ち込んだりするという状況を圧倒的に優先して考えていたのだ。もちろん、政府の軍事部門が「国防総省 Department of Defense」という名前になっているのも、「自分たちから先に核攻撃を仕掛けないと、アメリカは政策で公言している(マフリー大統領)」という信念(そして、その信念が実は極めて脆いのではないかと疑わせる事例が歴史には数多くある)が背景にあるからに違いない。その一方で、冷戦の最中にフィクションのシナリオとして、アメリカが暴走したらどうするのだ、という問いが建てられていたわけである。

ところが、フィクションの世界でも、このシナリオがその後微妙にシフトしていく。最初におかしくなるのはアメリカのせいではない、というストーリーに置き換わっていくのである。前述の『ファースト・ストライク』、そしてその映像を流用したTV映画『ザ・デイ・アフター(The Day After, 1983)』、HBOのTVドラマ『ラスト・カウントダウン/大統領の選択(By the Dawn’s Early Light, 1990)』などがそういった例だ。こういった物語ナラティブの前提の変化は、もう少し冷戦を背景としたアメリカの保守派論調の変化と同時に考えてみる必要があるかもしれない。

NOTES

1)^ 1958年〜66年にアメリカの国防システムとして導入されたのが「半自動式防空管制組織(Semi-Automatic Ground Environment, SAGE)」である。IBMがメイン・コンピューター、バローズが通信、MITがシステム統合、そしてウェスタン・エレクトリックが建物などのインフラ、ランドの子会社SDCがソフトウェアを担当した。SAGEは核爆弾を搭載したソ連の爆撃機をミサイルで迎撃して撃墜することを目的に建造されたシステムで、それぞれ A/N FSQ-7コンピューターを備えた23の管制センターからなる。A/N FSQ-7コンピューターは50,000〜60,000本の真空管からなり、250トンの重量、操作するには100人以上のオペレーターが必要だった。各センターのコンピューターはそれぞれ2組の同一のCPUを装備して冗長性を有していた。

2)^ ケン・アダムが美術を担当した『ゴールドフィンガー(Goldfinger, 1964)』でもリアルタイムで位置を表示するレーダーがアストン・マーチンに組み込まれている。これも極めて精巧で明快なディスプレイシステムに仕上がっていた。

References

[1]^ N. J. (Nicholas. J. ). McCamley, "Cold War Secret Nuclear Bunkers: The Passive Defence of the Western World During the Cold War." Barnsley, South Yorkshire : Pen & Sword Military Classics, 2007.

[2]^ "The Photographic Display Unit." http://www.ventnorradar.co.uk/PDU.htm

[3]^ "Theory of Operation of Display System for AN/FSQ-7 Combat Direction Central and AN/FSQ-8 Combat Control Central." Military Products Division,International Business Machines Corporation, Aug. 01, 1958.

[4]^ "Display Systems from Burroughs." Burroughs Corporation, 1965.